黒船、浦賀沖に来たってよ——。
そんな情報が駆け巡って日本中が騒然となったのは1853年、例年よりも暑い夏だった。
黒船、すなわちアメリカのマシュー・ペリーご一行の来航をきっかけに、あれやこれやの幕末の動乱、そして幕府が倒れて明治政府が生まれたというのは、小学校の教科書にも書いてある。浦賀沖のペリー来航、誰もが知っている歴史の中のできごとである。
実際にはそれほど単純な話ではなく、19世紀に入る頃から日本近海には欧米列強の船舶がたびたび現れていた。浦賀沖にもモリソン号やらマンハッタン号やらが訪れ、補給のために入港したこともあった。だから、ペリー様ご一行がやってきたときも、浦賀の人々にとってはさして珍しい出来事でもなくなっていたのかもしれない。
ただ、ペリー様ご一行はやっぱり特別だった。それまで日本近海に現れた船のほとんどは帆船だったが、黒船は最新鋭の軍艦、それも蒸気船。さらに大統領の親書を携えて、明確に日本に開国を迫ったのだ。
幕府が成立してからすでに200年以上。制度疲労も目立ちつつある中での出来事だったから、上を下への大騒ぎになるのも当たり前。かくして日本は、黒船が浦賀沖にやってきて、大きな歴史の転換点を迎えたのである。
ナゾのペリー来航の駅「浦賀」には何がある?
そんなわけで、小学生も知っている「浦賀」の名。いったいどこにあるかというと、神奈川県は横須賀市、三浦半島の東の端っこである。
浦賀水道を挟んだ向かい……というか、手の届きそうなくらい近くに房総半島も見える港町だ。
つまりは東京湾、古くは江戸湾に入ろうとする船は、みな浦賀沖を通らねばならぬという按配だ。否応なく、歴史的にも“要衝の地”であり続けてきた。
戦国時代には房総半島から勢力拡大を狙う里見氏に備え、後北条氏が水軍を置く。江戸時代初期にはウィリアム・アダムス(三浦按針)の尽力でスペインとの貿易拠点になった。
その後は幕府によって浦賀奉行が置かれ、江戸湾に入る船はみな浦賀に立ち寄って乗組員や積み荷のチェックまでされていたという。
まさに江戸の守りの要の地。それが、浦賀という町である。
そしてもうひとつ、浦賀は京急線の終着駅の町でもある。泉岳寺駅を起点にする我らが京急本線は、川崎や横浜、横須賀を経て浦賀駅を終点とする。
実情としては快特など速達列車は主に久里浜線に直通してしまい、浦賀発着は各駅停車が中心だ。それでも、品川や横浜などでも「浦賀行き」の電車を見かける機会は少なくない。
きっとそれを見て、「ああ、ペリーの浦賀か」と思った人もまた、多いのではないかと思う。
いったいそんな浦賀駅、どんな駅なのだろうか。



