42歳のときに「電撃性紫斑病」という大病を患い、両脚と両手の指の切断を余儀なくされた久多良木(くたらぎ)隆幸さん(48)。現在は、義足スポーツクラブ「NoLimitOita」で代表を務めるかたわら、両脚義足の現役パラアスリートとしても活動しています。

 工務店の社長という立場から一変、長い入院生活を送ることになった久多良木さん。切断手術を経て、どのような人生の変化があったのでしょうか。手術後の出来事について伺いました。(全3回の2回目/つづきを読む

競技用の義足を装着した久多良木さん(本人提供)

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長女と次女が“パパの右足”の争奪戦に

――切断のショックは大きかったと思います。入院中はどのように気持ちを保っていましたか? 

久多良木隆幸さん(以下、久多良木) 先生が「久多良木さんにとってお子さんは最後の防波堤だから」ということで、特別に子どもたちを集中治療室に入れてくれていました。

 娘たちは当時、長女が小学5年生、次女が小学2年生。僕が病気を発症したのが6月だったので、学校がすぐ夏休みになって、子どもたちが毎日ベッドサイドにいてくれたんです。

 娘たちと話ができ、ベッドの周りを無邪気に走り回るのを見ていると、死ぬに死ねないなと思えてきました(笑)。それに、僕は工務店を経営していて借金もあったし、子どもたちも小さかったですからね。

久多良木さん夫妻(本人提供)

――悲しむ暇はなかったんですね。

久多良木 そうなんです。僕は全部で3回切断しているんですけど、切断部位が大きいときは火葬場で焼却して供養するんです。

 僕の場合、膝の下から切断した足を火葬場に持っていくことになって。足ってすごく重いんですけど、長女と次女でどっちの足を持って行くか取りあっているんですよ。「パパの右足、私が持ってく!」って。あれはシュールな光景でしたね(笑)。

切断された足を運ぶ久多良木さんの次女(本人提供)

――奥さまのご様子はいかがでしたか?

久多良木 妻は建築士なんですが、仕事と子育てを一人で切り盛りしながら、僕の病室にも来てくれて、本当に大変だったと思います。よく「今のあんたの仕事は寝てることだから」と言ってくれて、僕のことを気遣ってくれていました。

 この先どうしようといった話はせず、子どもの学校の話とか、地区の寄り合いで決まったこととか、全然関係ない話をしてくれていました。実際に先のことを真剣に話し始めたのは、リハビリ病院へ転院してからでしたね。