42歳のときに「電撃性紫斑病」という大病を患い、両脚と両手の指の切断を余儀なくされた久多良木隆幸さん(49)。現在は、義足スポーツクラブ「NoLimitOita」で代表を務めるかたわら、両脚義足の現役パラアスリートとしても活動しています。
壮絶な闘病を経て、なぜ久多良木さんはパラスポーツの道を選んだのか。義足アスリートとしての日常と、挑戦を支える原動力に迫ります。(全3回の3回目/最初から読む)
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「竹馬の上につま先で乗るような感じ」
――退院後は陸上をはじめたそうですが、なにかきっかけがあったのでしょうか。
久多良木隆幸さん(以下、久多良木) 入院中にたまたまInstagramを見ていたら、大阪の50代の男性が義足でマラソンを走る動画を見つけたんです。その瞬間「これだ!」と心を掴まれました。
翌日には理学療法士の先生に「マラソンができるプログラムにしてください」とお願いしていました。それまでは「義足で日常生活を歩けるようになる」が目標だったのが、一気に「競技用の義足でマラソンを走る」へと変わって。地獄のリハビリが始まったわけなんですけど(笑)。
競技用の義足でトレーニング器具を漕いだり、アスリート並みに筋トレしたりして、周りの人が「入院中にそこまでやるの?」と目を丸くするほど注目を浴びていました。
――競技用の義足は生活用の義足と違うのでしょうか?
久多良木 生活用の義足は竹馬に乗ってるような感じで、競技用の義足は竹馬の上にさらにつま先で乗ってる感じです。
競技用の義足はバネもついているし、体を前に傾けて走るように作られているから、真っ直ぐ立ってると後ろに倒れやすいんですよ。生活用と全然違いますね。
パラリンピックには出られない
――それまで陸上経験はあったのですか?
久多良木 全然ありませんでした。お世話になった病院の院長さんや理学療法士、作業療法士の先生たちに手当たり次第声をかけ、「僕と一緒にパリのパラリンピックに行きませんか?」って誘ったんです。そうして集まってくれたのが「チームクタラギ」。サポートメンバーは40人くらいになりました。
最初の2年は短距離を中心に走っていたんですが、断端(切断後の断面)の管理がうまくいかず、走るたびに足に傷ができて感染のリスクが出てきました。そこで方向転換して、槍投げに挑戦することにしました。
陸上をはじめてからわかったんですけど、パラリンピックには片足義足のクラスはありますが、両足義足のクラスはありません。片足義足の選手と同じクラスに出ることになるんですね。
槍投げの世界記録を見ると、片足義足と両足義足では30メートルくらい記録が違う。なので、パラリンピックは現実的じゃないなと。今は日本記録の更新を目標として、全国各地を巡って大会に出ています。当初は僕一人を支えるためのチームでしたが、今は他の義足の選手もサポートするチームにスケールアップして「NoLimitOita」として活動しています。





