クマ被害に揺れる日本社会。現場では一体何が起きているのか。書籍『ドキュメント クマから逃げのびた人々』(三才ブックス)より、北海道のヒグマに襲われた猟師・山田文夫さん(当時69歳)の事例を抜粋して紹介する。

 2022年7月、役場からの通報を受けて同業者のSさんとクマの出没現場に急行した山田さん。仰向けに倒れた拍子に銃を手から離してしまい、クマと素手で格闘していたが——。(全3回の2回目/続きを読む)

北海道に生息するヒグマ(写真:KhunTa/イメージマート)

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「山田さん、手に何持っているのさ?」

 やむなく再び一人でクマと闘っているうちに、偶然にも繰り出した右拳が口の中に入った。さすがにひるんだのか、鼻先にあったクマの顔が離れ、一気に視界が広がった。クマの顔の他に腹や脚までが見えた。

「最初に一発、弾が当たった横腹から、腸が飛び出ているのが目に入ったんだよね。思わず左手をのばしたらうまいこと届いて、その腸をグッと掴んで思いっきり引っ張ったらベロベローッと出てきてね。

 そこで初めてクマはあきらめて、腸を引きずりながら離れていった。手も腕も嚙まれていたけど、興奮状態だったから痛みは分からなかったね」

 弾を取って崖の上に戻ってきていたSさんが、慌てて下りてきた。そのとき、「山田さん、手に何持っているのさ?」って言うので目をやると、クマの腸を50cmくらい左手に握りしめていた。とにかく血だらけだったが、起き上がってライフルだけは自分で探して右手で持って、左手で腸を持って上へあがって行った。下半身はやられていなかったから、歩くことはできた。

「首に嚙みつかれていたら、たぶんダメだったと思うね」

 知らぬ間に、猟師仲間が何人も集まっていた。

「『大丈夫かっ!?』という声に『大丈夫じゃない、やられた!』ってしゃべったことは覚えているんだけど、あとは記憶ないね。腸はその場で投げた(捨てた)よ(笑)」

 クマの口に入った右手には今も歯痕が残っており、親指は神経が損傷してしまい曲がらなくなっている。

山田さんの右手。指さした部分の凹みがクマの歯痕(撮影=風来堂)

 クマとの格闘は5分以上続いたとみられるが、69歳とはいえ、やはり元ラガーマンだった山田さんだったからこそ、これだけの死闘を繰り広げることができたのだろうか。恐怖心はなかったのだろうか。

「不思議と怖くはなかったね。振り回されたときは一瞬、『死ぬかな? ダメかな?』とは思ったかな。クマがどういうふうに俺を食べるのか見届けなきゃな、という冷静な自分もいたね。首に嚙みつかれていたら、たぶんダメだったと思うね」

 町立病院に救急搬送されたのが午後6時30分過ぎ。ストレッチャーに乗ったまま、そこの病院では、医師がひと目見て「これはどうにもならん」と言われ、そのまま50km先の紋別の病院へと運ばれた。