甲子園球場で赤星憲広選手に迎えてほしい

 そして、スタートから4年。兵庫県に入ると和馬の脚は衰え、04年9月23日からは車椅子に乗らざるを得なくなった。阪急神戸線の塚口~武庫之荘駅間の約2.4キロである。伸は日記にこう書いた。

〈病気の進行は恐ろしいもので、(中略)自力で歩行できるのは十数メートルというところまで来てしまいました。(中略)残念ながら今回から車イスを使用することにしました。ルールは基本的に自走で行く、そして坂などで無理そうな所だけ妹の真綾が助けるということにしました。〉

 車輪を自分で動かすため、手にマメができる。

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「お兄ちゃん、頑張って」

 ベビーカーに乗っていた真綾は4年間で、和馬を励ますまでに成長していた。

 そして、05年9月3日、家族は三宮にたどり着いた。そんなとき、MAWJから「夢が実現するかも知れない」と連絡が入る。

 伸がMAWJに連絡したのは約2年前だった。家族はキリスト教徒である。由理が教会事務所にあった絵本を読み、組織の存在を知る。「しんちゃん、連絡してくれへん?」と夫に頼んだ。関西支部のボランティアから、夢を聞かれた和馬は、「甲子園球場で赤星憲広選手に迎えてほしい」と答えた。

 俊足巧打でならし、01年から5年連続でセリーグ盗塁王に輝いた選手である。ちょうど和馬が阪急沿線を歩いているとき、赤星は盗塁を積み重ねた。

 夢の実現は容易ではなかった。それでもMAWJはさまざまなルートから、阪神球団に働きかけ、OKが出た。和馬の最終目的地は阪神電鉄・甲子園駅(西宮)になった。

5年連続で盗塁王に輝いた赤星憲広元選手 ©文藝春秋

「治ったら一緒に走ろうな。一緒に走ったる」

 旅の最後は06年6月、尼崎センタープール前駅から三駅先まで車椅子で行く。途中、緩い上り坂がある。和馬の握力は5歳違いの真綾の半分だ。暑さのためにバテてくる。由理は助けてやりたい気持ちを抑えて声を掛けた。

「和馬、どんな顔してる? ええ顔してる?」

 車椅子を懸命に動かす和馬を沿道の人たちが見守り、拍手を送っている。

「さあ、もうちょっとや。頑張り、頑張り」

 家族は6年間、同じ目標に向かって歩みながら、悲しみやつらさをはね返してきた。将来よりも今を、「ええ顔しながら生きていこう」と思った。

 和馬は坂を上り、甲子園まで「歩き」切った。球場で赤星に会うと、用意してきた手紙を渡す。

〈ぼくは病気で走れないので 病気が治ったら赤星さんみたいに走りたいです〉

 赤星が答えた。

「治ったら一緒に走ろうな。一緒に走ったる」

 家族みんなが「ええ顔」になった。

 和馬はその後、こう話した。

「病気と出合って、神様から友だちや仲間をもらいました。早く治ってほしいけど、筋ジスはぼくのトロフィーです」

 寿子は当時、事務局長の立場にあり、吉村ファミリーとの直接交流が始まったのは夢を実現した後である。寿子の講演会に呼ばれた和馬と伸が、聴衆を前に経験を披露したのが最初だった。その後、寿子は講演で、和馬が夢を実現する過程を記録した動画を紹介していく。

 よほど馬が合ったのだろう。その後、互いに行き来したほか、SNSで近況を報告し合った。伸はこう語る。

「互いにキリスト教徒というのもあるかもしれへんけど、すーっと仲良うなりました。他者に対しあれだけ偏見のない人は珍しいんちゃいますか。和馬もそれを感じたんやろな。話せなくなってからも、大野さんが来ると、じっと顔を見つめてましたもん」

 私へのメールで、和馬の死を寿子は「どこか清々しい」と表現していた。家族や仲間たちの愛情を存分に受けて旅立ったと確信できたからである。

小倉孝保(おぐら・たかやす)

1964年滋賀県生まれ。ノンフィクション作家。88年毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長などを経て論説委員兼専門編集委員。2014年、日本人として初めて英国外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人「女子柔道の母」ラスティ・カノコギが夢見た世界』(小学館)で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。著書に『がんになる前に乳房を切除する 遺伝性乳がん治療の最前線』(文藝春秋)、『中世ラテン語の辞書を編む 100年かけてやる仕事』(角川ソフィア文庫)、『35年目のラブレター』(講談社文庫)などがある。

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