25歳の浩子さんは女優に見切りをつけ、故郷に帰ることを決めた。

マネキンも劇団員経験も生きた

松阪に戻って1年後、浩子さんが力の限り看病した亮太郎さんが亡くなった。父・日出男さんが社長に、弟の信哉さんが専務になり、浩子さんは「駅弁あら竹 新竹浩子」という肩書のない名刺を持った。

「マネキンのアルバイトでお客様に喜んでもらう楽しさを知っていたから、家業への抵抗感は薄れていました。何より、養子として祖父との確執に苦しんできた父が社長になった今、全力で支えたいと思って」

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仕事は雑用からはじめた。駅弁作り・プライスカード作り・松阪駅への配達・取引先との交渉・百貨店の催事の準備。ネクタイを締めてかしこまる場を嫌った現場主義の父に代わって、日本鉄道構内営業中央会の会合にも代理出席した。

さらに、メディアの取材を受けるときには、劇団時代の経験が生きた。父の衣装選びや取材風景を撮影し、当時の駅弁業界では珍しかったホームページに取材の様子を掲載。「あら竹がテレビで紹介されました!」と、アピールした。これが「取材の取材」と呼ばれる手法になる。

積極的な広報活動で認知度が上がると、注文も増えた。昼間は12人のパートさんがいるが、夜は家族だけ。食事中でも家族総出で駅弁を作り、三瀬谷駅付近で30個の車内注文が入れば、20分で作ってホームへ向かう。こうした慌ただしい光景は新竹家では珍しくなかった。

浩子さんが30歳の時に出産したひとり娘の実奈さんは振り返る。

「母の寝言は全部仕事のこと。家を空けられないから、学校行事には祖父と祖母と母がローテーションで見に来てくれました。発表会で壇上から母を見つけたときは『やった! 今日はお母さんいる!』って嬉しくて。寂しさはなくて、来てくれた喜びの方が大きかったです」

初めての駅弁づくりで胃潰瘍に

入社から15年目、浩子さんは新聞の朝刊で「本居宣長没後200年記念事業 記念商品を募集」という記事に目を止めた。松阪市が江戸時代の国学者・本居宣長にちなんだ土産物の開発を呼びかけていたのだ。夜ご飯の席で父に切り出すと、「どうぞ」。41歳で初めて自分の企画で駅弁を作ることになった。