「男の子が4人も生まれたから、新竹家の継承は安泰。それもあって、父や母は私に全然興味がなくって」
小学校に上がる前から駅弁の紐かけが仕事になり、夏休みの繁忙期には1日に200個、300個とこなした。中学生になると店頭に立ち、駅弁とともに三重県を代表する「赤福」を売った。当時、あら竹は松阪市で唯一の赤福販売店。「赤福にまつわる物語を添えて売ると、お客さんは喜んで買っていかれたのを覚えています」
商品の背景を丁寧に語り、相手の心に響く言葉を選ぶ。これが後の広報や商品開発の原点となる。
嫌いだった、家族総出の「駅弁」家業
ただ、浩子さんは家業が心底嫌いだった。年中無休で、家族旅行は夢のまた夢。「とにかく家がうるさかった。食卓では商売の話が日常茶飯事だし、注文の電話が入ったらご飯を食べていても手を止めて家族総出で駅弁を作るから」
逃げ場は本の世界だった。アルセーヌ・ルパンや怪人二十面相などシリーズものを端から借りて読み、「学校で一番図書館を利用した子」と先生から言われた。
高校は進学校に入学するも、2年生から勉強漬けの環境に馴染めず、起立性低血圧症で朝起きるのも苦痛に。それでも休日は家業の手伝いに追われ、悶々とした日々が続いた。
大学受験が近づくと、願望は明確になった。「家を出たい」。
記念受験した明治大学に合格すると、「東京なら私のことを知っている人もいないし、家から一番遠い。新しい人生がはじめられる」。両親は反対しなかった。
アルバイトに明け暮れた劇団員生活
東京での生活は、昼は講義、夜は趣味の観劇が日課となった。下北沢の小劇場から歌舞伎までジャンルを問わず足を運び、観劇後は必ず『演劇界』という専門誌を読む。劇評と自分の感想を比較するのが面白く、自分の感想と違う点を発見したときは同じ作品を2、3度と観に行って分析するのが習慣になった。
大学3年の頃、演出家・松浦竹夫氏を知る。劇団「テアトロ海」と、演劇界で一流の師から教われるという養成所を立ち上げた人物だ。演劇好きが高じて、就職活動する同級生を横目に、ミーハー心を抱きながら養成所に入所し、女優を目指す。ただ、劇団員の収入だけでは生活できず、新たに始めたのがマネキン(実演販売)のアルバイト。浩子さんはなにを担当してもよく売り、販売実績が認められて美容メーカーから正社員の打診を受けるほどだった。