一見すると「無理筋」のようだが…
将棋連盟常務理事として同行している森下卓九段、飯島と検討する。皆の第一感は無理筋。だが調べてみると端を絡めて攻める順があり、なかなかうるさい。「軽い感じに見えますけど難しいですね」と飯島が言い、「結構受け切るのが大変ですね」と森下。
やがて森下が「先日、弟子の増田(康宏八段)と対談したんですが、増田が、『今は棋士になってからの努力が大切』と力説していたんですよ」と語った。
増田の言う通り、勝っている棋士は尋常ではない努力をしている。特に伊藤は研究室を借り、毎日のように研究会をしており、その努力量は永瀬拓矢九段と並んで将棋界で双璧をなす。努力があってこそ、この大一番の舞台に立っているのだ。
伊藤は慌てずに金を玉の隣に上げて守りを整え、戦機が熟した。
大盤解説の藤井猛九段、山田久美女流四段が控室に。解説会の定員である250席はすぐに売り切れたそうだ。藤井猛の詰将棋が看寿賞を受賞した話など、雑談しているうちに昼食休憩に。
藤井は休憩の50分を挟み、42分もの長考で9筋に歩を垂らし、香を9七に吊り上げてから飛車を7六に滑らせる。藤井の狙いは2六の飛車だ。香が入れば△2四香で捕獲できる。だが、伊藤の▲7七桂がうまい切り返しだ。
香取りに歩を打つ手や、全部を清算して猛攻するのはどうか、など様々な候補手が検討される。しかし、藤井が選んだ手は全く予想だにしないものだった。
凄まじい勝負手。控室に衝撃が走る
△5七桂成! 歩を取って成り捨て、入手した歩を香取りに打ったのだ。凄まじい勝負手に控室に衝撃が走る。先手から5筋に歩を打たれ、攻め込まれてしまうではないか。
青野が「5七の歩を取るなんて普通はない手だけどねえ」と言い、飯島も「1秒も考えなかったです」、また観戦記担当の上地隆蔵さんも「普通は嫌ですよねえ」と皆驚きを隠さなかった。なぜ考えないかというと、5筋の歩が切れると後手は玉頭を歩で攻められるからだ。藤井猛も「これはもうバトルだね。バトル」と興奮気味に語った。
伊藤は大長考に沈む。対局室が映るモニターを見ると、この将棋のすべてを読み切ってやるという表情だ。
インファイトを誘う藤井。伊藤の応手は…
16時20分が過ぎた頃、▲5四歩と打って5三のマス目を空け、歩で王手し、藤井は玉を引いた。玉頭に歩が垂れて、しかも手番は相手。喉元にナイフを突きつけられて、さらに相手に攻められる状態だ。
怖いなんてもんじゃない。これは藤井にしか指せない手だ。藤井の辞書には「恐怖」という言葉がない。
しかしである。改めてこの局面を調べてみると大変なのだ。香が入ると△2五香で伊藤の飛車が取られてしまう。桂を成り捨てて金を動かした効果で玉の右側が開いているため、飛車で王手されるときついのだ。
検討するうちに、2六の飛車を2八に引く手が良いのではないかということになった。これなら飛車を捕獲されないし、飛車の横利きが玉を守っている。
藤井相手にインファイトは怖い。距離を取ってのアウトボクシングにしないと。うん、これぞ「受けの伊藤」らしい手だ。
だが、この予想は大きく外れ、ここからタイトル戦史上、いや公式戦史上、異次元の攻防が繰り広げられることとなる。





