続々と連載が決まり、年収が3倍に

「この仕事が続くと思っていなかった」という武論尊さんに、再び依頼が来た。当時、人気沸騰中だったアイドル、南沙織の人生を漫画化した読み切りの原作だ。ここで武論尊さんは、持ち前の空想力を発揮する。

「資料はプロフィールだけ。でも沖縄出身という話をうまく膨らませて書いたんだ。これがよくできててさ。今、自分で見てもびっくりするよ。2作目でこれを書けたのは、天才だと思う(笑)。編集者もこの原作を見て、あ、こいついけるかもしれないって思ったんじゃないかな」

2作目で手応えを感じたという武論尊さん。以降、膨大な作品を手掛けていくことになる

 実際、週刊少年ジャンプの1972年23号に掲載された『南沙織物語』(作画・三晃たける)は高く評価されたのだろう。翌年には、連載が決まる。それが、1973年26号から同年40号まで掲載された『クライムスイーパー』(作画・逆井五郎)。

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 同年、講談社の週刊少年マガジンでは史村翔名義で『球豪伝』(作画・増本繁行、守谷哲巳、大東豊治、関谷ひさし)を連載。史村翔という名は、ライバル誌だからと武論尊はさすがにまずいと思った講談社の編集者が、本名である岡村善行のローマ字「OKAMURA YOSHIYUKI」を入れ替えて命名したそうだ。

 この時期、東京都練馬区にある家賃2万円のマンションに住んでいた武論尊さんの年収は、約100万円。本宮プロでの年収が36万円だったから、3倍ほどになっていた。1975年から原作を手掛けた『ドーベルマン刑事』(作画・平松伸二)で、さらに飛躍する。

「5回分だけ書いてくれ」から大ヒット作品に

 武論尊さんと平松さんの出会いは、1973年。編集者の紹介で将来有望な高校生として注目されていた平松さんと初めて組んだのが野球モノの読み切り『限界30球!』だった。

 その後、高校を卒業した平松さんが上京。週刊少年ジャンプで連載していたある漫画家が体調を崩し、5週間分の枠が空いたタイミングで、編集部から「平松くんと組んで、5回分だけ書いてくれないか」と連絡があった。オファーが来た時、頭に浮かんだのは暴力的な手段も辞さないアウトローの刑事が主人公の映画『ダーティーハリー』だった。

「もっとハードなやつをやろう」と意気込んで生まれたのが、『ドーベルマン刑事』。主人公は凶悪犯罪専門の警視庁特別犯罪課に所属する加納錠治で、凶悪犯罪者を次々と射殺する過激なストーリーだ。