「ただの暴力漫画」にしない、武論尊流の工夫とは?
武論尊さんが「自分のなかの毒を出しちゃえ!」と振り切って書いたという『ドーベルマン刑事』の人気はうなぎ登りで、5回の読み切りが連載に切り替わり、最終的に4年以上も続いた。「現代では掲載できなさそうな攻めた内容ですね」と伝えると、武論尊さんは頷いた。
「やっぱり初めてのヒット作だから、とんがりますよ。勢いに乗って、いけるところまでいってやれと思ってね。触れちゃいけないと言われていた天皇家とか沖縄の米軍のことも書いちゃってますから」
ただし、ただの暴力漫画じゃないという矜持を持って書いていた。
「100人を生かすために1人を殺していいかという究極のテーマがあるでしょう。1人が犠牲にならないと100人が助からないとしたら、俺は1人を殺してもいいと思ってるんですよ。理想論じゃなくてね。それが俺の毒の部分、闇の部分。
でも、だからこそ、漫画のなかでは『この男だったら射殺されても仕方ない』というキャラを作らなきゃいけないし、そこで一番苦労しなきゃいけない。嫌悪感とカタルシスは紙一重で、 うまくいかないと嫌悪感になる。それを間違えると、ただの暴力漫画になっちゃうんだよ」
仕事は順調な一方、ちばあきおさんから「調子に乗ってるな」と叱られたことも
『ドーベルマン刑事』のヒットで「見たことのない金額」が振り込まれるようになり、あっという間に年収が1000万円を超えた。金銭感覚が狂った武論尊さんは、練馬区の自宅からタクシーで熱海に行き、芸者を呼んでど派手に豪遊してタクシーで日帰りするような日々を過ごした。
その姿を見かねて、武論尊さんに苦言を呈したのが一世を風靡した野球漫画『キャプテン』の作者、ちばあきおさん。3歳年上で、同じマンションに事務所を構えていたちばさんは、武論尊さんのために夜食を作って食べさせたり、一緒に飲みに行った時に愚痴を言い合ったりしていた間柄で、武論尊さんは「本当に困った時に支えになってくれた大恩人」と評する。
ある日、ふたりの行きつけの鮨屋で会計の際、武論尊さんが「今日はおれが払いますよ」と言った。その時、ちばさんから面と向かって「お前、調子に乗ってるな。かっこ悪いぞ」と指摘された。武論尊さんはこの時、「はっ」として、それ以来、伸ばし過ぎた羽を少し折り畳むようにした。
とはいえ、肩で風を切って歩きたくなる気持ちもわかる。武論尊さんは当時、『ドーベルマン刑事』の集英社、さらに小学館や講談社でも連載をしており漫画最大手の3社で連載という偉業を達成していた。読み切りを含めると、ひと月に10本以上の原作を書いていた当時をこう振り返る。
「『ドーベルマン刑事』の一発屋で終わるのは嫌だったからね。これでやっとやっと原作者になれたかな?っていう気分だった」
想定外だったのは、単行本の総発行部数が500万部を超えた『ドーベルマン刑事』のほかに、同じような大ヒット作に恵まれなかったこと。充実感もありつつ、どこか鬱々とした気持ちを抱えていた1980年代初頭、武論尊さんは激しい内戦が一時的に落ち着いていたカンボジアに向かった。そこで目にしたものが、世界的大ヒット作『北斗の拳』の誕生に多大な影響を及ぼす。

