1980年12月8日の夜(現地時間)、ニューヨークの自宅「ダコタ・ハウス」前で凶弾に倒れたジョン・レノン。没後45年が経った今も、その早すぎる死を悼む声は止むことがない。
ノンフィクション作家・青木冨貴子さんによる新著『ジョン・レノン 運命をたどる』(講談社)より、事件当日の出来事について取り上げた箇所を抜粋して紹介する。(全3回中の2回目/続きを読む)
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その日は「ローリング・ストーン」誌の撮影だった
運命の日、12月8日は月曜日だった。その朝、ジョンはいつものようにキッチンで朝食をとり、息子のショーンと子供用テレビ番組「セサミ・ストリート」を一緒に見てから散髪に出た。その日に予定されていた女流写真家アニー・リーボヴィッツによる「ローリング・ストーン」誌表紙撮影に備えるためだった。
このロックンロール雑誌とジョンは長い付き合いだった。創刊第一号の表紙を飾ったのがリチャード・レスター監督の映画に出演したジョン・レノンだった。1968年11月23日号では「トゥー・ヴァージンズ」と同じ時に撮ったジョンとヨーコの全裸写真が表紙を飾った。アルバムとは違う後ろ向きに立って振り返る写真だったが、それでも大きな話題を呼んだ。
その日、ダコタの7階アパートを訪ねてきたリーボヴィッツは、二人の自宅で撮影したいと言ってきた。自宅撮影を許可することは稀だったが二人が快く受け入れたのは、売れ行きが思ったほど伸びない新アルバムの宣伝に「ローリング・ストーン」誌の表紙は良いパブリシティになるからである。
素っ裸でカメラの前に立ったジョン
リーボヴィッツは以前の全裸写真を思い描き、二人を撮るなら裸で絡み合う写真を撮りたいと思ったのだろう。「ダブル・ファンタジー」のアルバムジャケットは篠山紀信撮影による歳月を感じさせる円熟キスだったが、これとは全く違うインパクトの強い肉感的で官能的な写真を意識したにちがいない。
ジョンは承知したが、ヨーコは首を横にふった。それならヨーコは黒いシャツのまま、ジョンは素っ裸で撮影しようということになり、ジョンが裸でヨーコの小さな体にのしかかった。後頭部に両手をまわしたヨーコは、まるで胎児のように体を丸めてしがみつくジョンの存在など気にかけない様子で、宙を見たまま瞑想しているようだった。
リーボヴィッツがポラロイドを見せると、
「凄い! これがぼくたちの真実の関係だ」
ジョンが興奮気味に言った。
