1980年12月8日の夜(現地時間)、ニューヨークの自宅「ダコタ・ハウス」前で凶弾に倒れたジョン・レノン。没後45年が経った今も、その早すぎる死を悼む声は止むことがない。
ノンフィクション作家・青木冨貴子さんによる新著『ジョン・レノン 運命をたどる』(講談社)より、ジョンとオノ・ヨーコの“極秘来日”について取り上げた箇所を抜粋して紹介する。(全3回中の1回目/続きを読む/※記事中「水原」とは東芝音楽工業のディレクター・水原健二氏のこと)
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骨董品店を訪れて「ハウ・マッチ」
ビートルズ武道館コンサートのために初来日した1966年、ジョンは厳しい警備網を潜り抜けてホテルを脱出し、こっそり表参道のオリエンタル・バザールと麻布の骨董屋を訪ねていた。2回目のこの訪日でも湯島にある羽黒洞という骨董品店をヨーコと一緒に訪ねた。
羽黒洞店主の長女、木村品子はその日、外国人が来たので近づいてみるとビートルズのジョン・レノンと小野洋子だったので驚いた。今でも健在な品子をシニアホームに訪ねて話を聞くと、あの日のことをよく覚えていた。
「洋子さんは芸術家ですから前にもいらっしゃっていましたから、すぐにわかりました」
店主で父の木村東介が仕事から帰ってきたので「ジョン・レノンが来ていますよ」と声をかけた。「小野洋子さんも一緒ですよ」と。店では客の出入りも多いのでゆっくり絵を見てもらえないだろうと思い、二人を店の向かいにある自宅の二階に連れていった。羽黒洞は浮世絵専門の画商で、掛け軸もオリジナルをたくさんもっていた。そこでいろいろ絵を見せると、「ハウ・マッチ」とジョンは訊く。いくらいくらと答えると迷うことなく「オーケー」と言う。
「“ワンダフル”ともジョンは言っていましたね。次の絵を見せると“ハウ・マッチ”を繰り返して“オーケー”と答えるんですよ」と品子は笑い声をあげた。
床の間にあった白隠や仙厓の絵も見せると、それがどんな絵かヨーコが英語でジョンに説明する。説明するだけで決してこれを買えとかヨーコは言わなかった。二人はいかにも仲むつまじく品子の目に映った。
