1980年12月8日の夜(現地時間)、ニューヨークの自宅「ダコタ・ハウス」前で凶弾に倒れたジョン・レノン。没後45年が経った今も、その早すぎる死を悼む声は止むことがない。

 ノンフィクション作家・青木冨貴子さんによる新著『ジョン・レノン 運命をたどる』(講談社)より、著者が銃撃犯・チャップマンの妻であるグローリア氏に接触した箇所を抜粋して紹介する。(全3回中の3回目/最初から読む

ジョン・レノンを銃撃したマーク・デイヴィッド・チャップマン(Photo by Bureau of Prisons/Getty Images)

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ニューヨークには“二回”渡航していた

 ハワイの旅も終わりに近づく頃、グローリアは検事の依頼で書いた裁判所への報告書を見せてくれた。チャップマンが立て続けにハワイから二度ニューヨークへ行った際の様子を書き留めた妻の記録である。

 これによると、チャップマンが最初にハワイを発ったのは1980年10月29日のことだった。グローリアは夫を送っていかなかった。二人はその朝、ちょっとした口論をして、送って行く気になれなかったと記されてあった。夫は夜8時半に出発し、その頃、彼女はちょうど『ライ麦畑でつかまえて』を読み終わっていた。

 夫から電話が入ったのは2日後の31日夜6時半頃、ニューヨークの五つ星ホテルのウォルドーフ・アストリアから電話してきた。ケネディ空港から市内までの道はどこも汚くてがっかりしたと言ってきた。

 次に電話してきたのは翌々日の11月2日。彼は西六三番通りにあるYMCAへ宿を移し、ニューヨークが気に入ってきたと言った。このあたりの通りはもっと綺麗だし、人々はハワイより親しみのある感じだという。ブロードウェイに行って、ジョージ・C・スコットの主演する劇とデヴィッド・ボウイの出ている「エレファント・マン」を観てきたと言って興奮していた。

「どのくらいニューヨークにいるつもり」と訊いてみると、そう問われたことが気にくわない様子で言葉を濁した。翌日また電話してきてシェラトン・センターへ宿泊先を変えたと言ってきた。42階の部屋なので、タイムズ・スクエアがよく見えると言っていた。

 次に電話してきた11月4日、夫はジョージア州のアトランタへ数日行くと言い出した。

 自分の育った場所をもう一度見てみたいというのだ。

 7日、ジョージアからの電話ではかなり鬱状態だった。友達に運転してもらって、以前に住んでいたところを見てまわり、ずいぶん変わったのに驚いた。好きだった先生にも会ったし、友達と二人で射撃の訓練もしたと言うのだった。

 9日、夫はニューヨークから電話してきて、もうすぐ帰るというのでグローリアは嬉しくなった。