みかん鉄道は地域の悲願だった
有田地域では江戸時代からみかん栽培が盛んで、江戸でも有田のみかんは大人気だったという。
もちろん当時の輸送方法は船だ。牛馬に牽かせたり、有田川を平田船で下ったり。そうして港に集めたみかんを船で江戸・東京へ。江戸時代にはもちろん帆船、明治に入ると蒸気船も使われた。
しかし、船での輸送は天候に左右されることも多く、また船を満載にするまで収穫したみかんを溜めないと効率が悪い、といった欠点があった。明治に入れば輸送手段のトップランナーはもちろん鉄道だ。
ところが、紀伊半島に鉄道がやってくるのは遅かった。少なくとも大正時代初期の時点では、まだ紀勢本線も有田川沿いに到達していなかったのである。
そこで地元の人たちが立ち上がり、せめて港までとみかんを運ぶ鉄道を開いた。それが有田鉄道だ。
開業当初は湯浅港に近い海岸駅がターミナル。大正末に紀勢本線が開通すると藤並駅で接続するようになり、ようやく有田のみかん輸送の主役は鉄道に変わった。
天候の影響を受けず、いつでも日本中にみかんを届けることができるようになったのだ。有田みかんの新時代を開く第一歩。それが有田鉄道線の開業だったといっていい。
特に戦後になって、全国的にみかんの生産量が増えてゆくと、有田鉄道も八面六臂の大働きを見せる。1950年代半ばから1960年代まで、有田鉄道線は毎年2万トンほどの貨物を運んでいた。
ピークは1964年の3万3000トン。木材も主要な輸送品だったからすべてがみかんとは言わないが、それでもみかんは多くの割合を占めていたに違いない。
ちなみにこの頃のみかん輸送は有田に限らず鉄道頼み。東京では、みかん類の90%近くが汐留の貨物駅から流通していたという。
そのうちいくらかが有田鉄道線を介して運ばれてきたみかんだったのである。その出発点が、いまはしがない廃駅の田殿口駅であった。



