二人の巨星の訃報が流れた。加藤剛、そして橋本忍。お二方とも、表現者としての人生を振り返る長時間のインタビューをした最後の相手は、おそらく筆者だったと思う。
そこで今回は取材でうかがった話を交えつつ、橋本脚本・加藤主演の映画『砂の器』を取り上げることにする。
原作は松本清張の同名小説。ある殺人事件を今西刑事(丹波哲郎)が追うミステリーで、加藤剛は犯人である気鋭の音楽家・和賀英良を演じた。
加藤自身は本作に手応えを感じてはいなかったようで、インタビューの際、「私としてはあまりよくできたと思っていません」と語っている。そして、こう続けた。「私より、私の少年時代を演じた子役の人や父親役の加藤嘉さんの演技がいいんで作品が良くなったんだと思います」
その認識の通り、本作の最大の見せ場は回想場面にある。
物語の終盤、今西の捜査報告と、コンサートでテーマ曲「宿命」を演奏する和賀の回想とが交錯する形で、事件の背景となる和賀の少年時代の映像が綴られる。そこでは、理不尽な事情で社会から疎外されることになった父子の当て所ない旅が描かれていた。
ボロボロの遍路装束をまとい、行く先々で石を投げられ、雨の日も雪の日も泊まる場所もない。それでも身を寄せ合い、旅を続ける父と子の姿。哀しくも優しい情感にあふれた一連の美しい映像は、観客の感動を誘うことになった。
そして、それこそが脚色の根幹だったと橋本は振り返る。筆者が橋本に聞いたところでは、原作を読んだ橋本はミステリーとしての雑さに「これでは映画にならない」と判断。原作ではわずかしか触れられていない父子の旅を終盤に描き込むことで観客を泣かせて満足させる——という戦略で脚色に臨んだ。全ては橋本の狙い通りだったのだ。
ただ、だからといって加藤剛の存在が希薄かというと、実はそんなことはない。この回想シーンで最も大切なのは、本心では父と再会したくてたまらないのに、それを許されない和賀の葛藤。ピアノを弾きながら父との旅の日々を思い出す加藤の芝居からその心情が伝わらなければ、「彼はもう音楽の中でしか父親に会えないんだ」という最も感動的な今西のセリフは説得力を失い、全ては台無しになる。
だが、実際に本作を見れば分かる。演奏する加藤の表情は全身で宿命を背負い込んでいるように映り、「音楽の中で父親と会っている」様が実感をもって伝わってきた。当人の認識と裏腹に、加藤は凄絶な芝居を見せているのだ。
最高の脚本家と最高の名優が織り成す、最高の日本映画。それが『砂の器』である。