今回は『私は貝になりたい』を取り上げる。先日亡くなった橋本忍が脚本だけでなく自ら監督までした作品である。
巨大な理不尽によって押し潰されていく無力な個人の悲劇。それが橋本の生涯描き続けてきた物語の基本構造だ。もちろん、本作もまた徹底してそれが貫かれている。
物語は太平洋戦争中から始まる。主人公の豊松(フランキー堺)は妻(新珠三千代)と共に床屋を営んでいたが、召集令状により戦地へ送られる。ここから豊松の身に容赦なく理不尽が襲いかかる。
敗戦により復員した豊松だったが、妻子と元通りの生活に戻ったかと思えた矢先、逮捕され軍事法廷にかけられる。実は戦地で上官の命令により、心ならずも敵捕虜を死なせてしまっており、その罪を問われて戦犯として裁かれることになったのだ。上官の命令は絶対。逆らうことなどできない――そんな豊松の弁明は通じず、絞首刑の判決を受けてしまう。妻は必死の助命嘆願を続けるが、願いは聞き入れられることはなかった。
戦争犯罪における責任の所在、戦勝国による一方的な敗戦国への断罪の妥当性といった、戦争についての社会的問題意識を喚起するテーマが本作には多くちりばめられている。そのため、そうした視点から語られることの多かった作品で、新聞等のインタビューでは橋本もジャーナリスティックに答えてきた。
だが晩年、筆者のインタビューに橋本は「それではいけない」と言っている。大上段に構えたテーマで作品を語る評論家、社会問題として作り手に作品テーマを語らせる記者たち。彼らが映画の作り手たちを潰してきたのだ、と。
そんな大層なことから出発しては頭でっかちになるばかりで、それでは脚本は書けなくなる――と橋本は主張する。聞かれたからそう答えただけで、自身の出発点はそこにはないというのだ。それを知らずに社会的に作品を捉えた評論や作り手たちのメッセージばかり目にした若い志望者たちがジャーナリスティックな視点を出発点にした結果、面白い作品にならなくなる。橋本はそう危惧していた。
あくまで創作の出発点は「人間ドラマ」でなければならない。それが橋本の根幹にあった。本作でいえば、まず描くべき核として豊松夫妻の愛の物語があり、戦争も軍事法廷もそれを描くためのモチーフでしかないということである。だからこそ、本作をはじめ橋本脚本作品の多くは複雑な問題をテーマとしながら小難しい内容には決してならず、大衆娯楽として多くの観客を感動させることができたのだ。
この機会に、橋本忍の偉大さをぜひ再確認してほしい。