映画『終点のあの子』(2026年1月23日公開)のプレミア上映会が都内で開かれ、W主演となる當真あみ、中島セナをはじめ、2人のクラスメイトを演じた平澤宏々路、南琴奈ら豪華キャストと、吉田浩太監督が登壇。10年以上の歳月を経て映画化が実現した本作について、熱い思いを語った。
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「何者かになりたい」思春期のリアル
「10年以上の時間をかけて作った映画です」――こう口火を切ったのは、吉田監督だった。
吉田監督 原作である柚木麻子さんの『終点のあの子』(文春文庫)を10年以上前に読みまして、高校生たちの抱える痛みや、互いに共鳴しあう描写に強く惹かれたんです。希代子は本来すごく普通の子なのに、奔放な朱里(あかり)に憧れ、親友だった森(奈津子)ちゃんを裏切ってしまったりする。その小さな感情の動きは、女子高生特有ということではなく、普通に誰にでも起こりうる気持ちだと感じました。どうしても映画にしたいと熱望して、10年以上の時間をかけて作った映画です。こうしてプレミア試写をご覧いただくことができて、とても幸運に思っています。
中高一貫の女子校を舞台に、思春期の少女たちの友情と自意識の揺らぎを描く『終点のあの子』。物語は、有名写真家を父にもつ朱里が、高校から外部生として入学してくるシーンで始まる。
物語の中心にいる女子高生4名は、
・何者かになりたいと憧れつつ周囲に合わせて生きている希代子(當真あみ)
・常に特別であろうとする孤高の存在、朱里(中島セナ)
・希代子の親友だが、朱里と希代子が接近することで居場所を失っていく森奈津子(平澤宏々路)
・クラスの中心にいる華やかなリーダー格の恭子(南琴奈)
それぞれ実際の年齢に近い女子高校生というキャラクターを、4人の俳優はどのように捉え、演じたのだろうか。
當真あみ 私が演じた希代子は、本当に普通の女の子だなって、原作や脚本を読んで思いました。ふだんの学校生活では、基本、周りに合わせて生活している。周囲を窺いながら、集団の中に溶け込むように努力している女の子で、彼女の感情は誰しもがいちどは経験したことのあるものなのかなというふうに思っています。できるだけナチュラルに自分のまま、自然体に演じられるように意識していました。
中島セナ 朱里は、希代子とは逆に普通であることを嫌っている。人と違うことに意味を見出せる人だと思うんです。さらに高校生特有の万能感と自意識の中で揺らいでいる人だと思います。希代子との距離感だったり、自分が自由でいようとする姿勢みたいなことを意識しながら演じました。
平澤宏々路 森(奈津子)ちゃんは自分にコンプレックスをもっていて、独りになることにすごく怖さを覚えてる女の子。人と一緒にいることで安心感を得ていて、彼女のそういう部分は小学生の頃の自分とすごく似てたので、過去の自分を救ってあげられるように、自分の持っている痛みと人が感じている痛みをしっかり見分けられるように、と、ずっと意識して演じていました。台本を読んでいる間も涙を流してしまうくらいだったので、本当に自分に近かったんだろうなって思ってます。
南琴奈 恭子はいわゆるクラスのリーダー的存在で、女の子たちから憧れられるような華やかな一面も持っているんですが、その強さとは裏腹に、自分の心の裡とか、自分の脆いところとかをさらけ出すのが苦手だったり、不器用な一面もあることを知って、切ないなと思いました。そういう弱さも含めて愛らしいキャラクターだなって思っていて。やっぱり高校生という多感な時期に他人からの見られ方だったり評価を気にしてしまうのは、ひとごととは思えませんでした。






