駅が衰退する一方で、「駅そば」がどんどんと人気に
音威子府村の人口は昭和20年代、4000人以上に達しており、資料によるとその3割、少なくとも1000人以上が鉄道会社員として、この村で働いていたことになる。
その頃の市街地には、数棟の巨大な国鉄官舎や「日本通運」などの物流倉庫、映画館や劇場、書店に食料品店などがズラリと揃っており、道内でも有数の「鉄道の街」であったことは、疑いない。
さらに、宗谷本線からは羽幌線、天北線からは興浜北線といった支線が分かれており、音威子府は各方面への「1カ所目の乗換駅」としての役割を果たした。初代の駅そば店「常盤軒」もこういった乗り換え客・鉄道マンのために戦前から営業を続け、全盛期には駅側・ホームの2カ所で営業。24時間ずっと店を開けていたという。
しかし、戦後のモータリゼーションによる鉄道の衰退と、近代化による蒸気機関車の減少によって、音威子府に溢れていた乗り換え客・鉄道会社員、そして村の人口も減少の一途をたどる。
一方で、常盤軒は、あまりにも独特な一杯が人々の記憶に残り、駅の衰退と反比例して「幻の駅そば」「鉄道ファンの憧れの存在」として、広く全国に認識されるようになる。しかし2021年2月に3代目店主・西野守さんが亡くなり、その後閉店のやむなきに至った。
翌年には、音威子府そばの唯一の製造元であった畠山製麺も、機械の老朽化などもあって技術の継承を拒んだまま廃業。このままでは、唯一無二の音威子府そばが失われる——村の人々も鉄道ファンも、居てもたってもいられないような「逸品の消滅」危機に見舞われていたのだ。
それがなぜ、大復活を遂げられたのか。続く記事では、復活に携わった人物や村長へのインタビューを通し、姿を消しつつある駅そばの存続や復活のヒントを探っていく。
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