今度は、ウィリアム・シェイクスピアの『ハムレット』に出てくる台詞を引用している。驚いたことに小島は、確実に無期刑を勝ち取るために余罪まで作っていた。小田原警察署にいたとき、警察官に馬乗りになって顔面を殴りつけたというのだ。
「単純殺人で未遂が二件、銃刀法では、無期刑になるためにはこのくらいやらなければなりません」(2019年2月21日)
刑務所で暮らすためなら、どんな努力も惜しまないということなのか。
「私は検事の取り調べにおいて、『キリスト教徒が修道院に入るように、仏教徒が山門に入るように、私は刑務所に入るのです』と供述した。すると、検事がこう問うた。『修道院には神の加護が、山門には仏の加護があるけれど刑務所にはないでしょう』。それに答えて私は『国家の加護がある』と供述しました。私は、刑務所では基本的人権が守られることを信じます。そうあれかし、アーメン。『人を罰するのも仏、人を許すのも仏なら、この日本に今ある仏とは日本の国家です』。私は上申書にこのように書きました。『私は刑務所に入らなければ幸福になれない凡夫であるから、たとえ刑務所に入って、幸福になれなくても構わない』と。その心は法然聖人を思う親鸞と同じ」(2019年2月21日)
本当に取り調べでこんな落語のようなやりとりをしたのか甚だ疑問だが、検事も彼の本音を知るために一生懸命向き合ったのかもしれない。
「私は『全人類に対する憎悪の刑』に処されているのです」
小島は相手が誰であっても、単刀直入に答えるつもりはないのだろう。ふざけた文章で、人を試しているかのようだ。けれど、ここまで長々と書くということは、聞いてくれる人を求めているようにも見える。
それにしても、刑務所に求める幸福とは何なのか。切羽詰まった感情なのだろうが、一体、何にそこまで追い詰められていたのかは見えてこない。
この「国家の加護」の意味するところは、のちに具体的になっていくのだが、このときはまだ意味不明なだけである。
「この殺人をしてからは、責任能力が認められて本当によかった。これで認められなかったとしたら、刑務所に入れませんでしたから。無期刑に処されることは恐ろしくない。私はもっと恐ろしい刑に処されているからです。自由の刑に、ではありません。『自由からの逃走』はもうしたのです。私は『全人類に対する憎悪の刑』に処されているのです。これほど、恐ろしい刑にすでに処されているのに、地上的な刑がなんだろう。無限に恐ろしいことがあるなら、それ以外は相対的に恐ろしいことはないのです。かっ、限界だ。こんなくだらないことはいつまでも書いてはいられません。それでは、お手紙、お待ちしております」(2019年2月21日)
『自由からの逃走』は、エーリヒ・フロムの著書。「全人類に対する憎悪の刑」という言葉は、小島曰く、コルネリウス・タキトゥスの『年代記』15巻44章が原典らしい。小難しい引用を使って自らを語っているが、意味はまったくわからない。
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