死者7万人超の凄惨を極めるガザの悲劇。その裏でアメリカは、イスラエルへの巨額支援を続けつつも、本音では「対中国」へのリソース転換を図る。『エブリシング・ヒストリーと地政学』が話題のエミン・ユルマズ氏が、アメリカの地政学失策から軍事的再編まで解説する。

(本稿は、前掲書から一部抜粋したものです)

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エミン・ユルマズ氏 ©文藝春秋

イギリスの三枚舌外交が招いた“大災厄”

 イスラエル・パレスチナ問題は非常に根が深く、古くは19世紀後半、オスマン帝国領パレスチナで、ヨーロッパでのユダヤ人迫害を機に、「祖国回復」を掲げるシオニズム運動が興ったことにさかのぼる。

 ここでは駆け足で説明すると、第一次世界大戦中にイギリスの三枚舌外交で、ユダヤ人には「パレスチナにユダヤ人国家を建設することを支持する」と約束し(バルフォア宣言)、アラブ指導者フセインには独立支援を約束し(フセイン゠マクマホン協定)、フランスに対してはサイクス゠ピコ協定で領土分割を密約する。戦後パレスチナはイギリスの委任統治領となるが、シオニストによる移民・土地購入が増加し、アラブ人との対立が激化し、アラブ人による反乱も起こる。

 第二次世界大戦後、ナチスドイツによるホロコーストの衝撃でユダヤ人国家設立の声が国際的に高まり、国連はパレスチナをユダヤ・アラブの二国家とし、エルサレムを国際管理下とする分割案を可決。ユダヤ側は受け入れたが、アラブ側は土地配分の不公平を理由に拒否する。

 大きな悲劇が起きたのはイギリス撤退後の1948年――。ユダヤ側が突如イスラエルの建国を宣言し、第一次中東戦争が勃発。軍事力による民族浄化、土地・財産の収奪で、約70万人のパレスチナ人が難民化し、ヨルダン川西岸やガザ地区に難民キャンプが形成された。これを「ナクバ」(アラビア語で大災厄の意)と呼ぶ。

 1967年の第三次中東戦争(六日戦争)においては、イスラエル軍はシナイ半島、ゴラン高原、東エルサレムを含むヨルダン川西岸、ガザ地区を占領。国連は撤退を求める決議を採択したが、占領は継続し、紛争は長期化した(図参照)。

『エブリシング・ヒストリーと地政学』より

 1970~1980年代にかけてイスラエルが最も敵視したのが、パレスチナ人の民族自決権や離散パレスチナ人の帰還権を求めるPLO(パレスチナ解放機構)であった。設立当初のPLOはイスラエルの撲滅を掲げていたが、1969年にアラファトが議長になってからは、第三次中東戦争でイスラエルが占領した地の返還、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が共存する民主的・世俗的なパレスチナ国家の独立を目指すようになった。PLOの弱体化を狙うイスラエルは、ガザでイスラム主義運動を展開していたハマスの前身のスムリム同胞団を支援した。宗教的なイスラム主義運動が拡大すれば、世俗的なPLOの支持基盤に分裂が生まれ、弱体化すると踏んだのである。