作品集では、娼妓らが着物姿で様々なポーズを取っている。明治中期~後期の写真である。

 冨重写真所四代目の冨重清治は語る。

「娼妓らは個人個人で来ていたんです。自分の旦那やひいきの客などに写真を配るわけですが、そのとき自分の源氏名も書いておく。お客さんたちが財布などに入れて持ち歩けるように、名刺型の大きさになっています。芸能人のブロマイドと同じですね」

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写真はイメージ ©AFLO

 構図はバストアップだけでなく、明治期にしてはユニークなものもある。

 例えば市玉という娼妓は、カメラに向かって後ろ向きになり、正面の大きな鏡に顔を写している。要は一枚の写真で後ろ姿、バストアップの二通りの姿を見ることができるわけである。顔もかわいらしいが、背中の帯(お太鼓)と日本髪に結ったうなじがなまめかしい。冨重利平の長男・徳次の撮影である。

 夕霧という娼妓は椅子に座り、本が数冊置かれたテーブルに右肘をついている。これも徳次の撮影で、明治中期である。口元はきりりと締まり、目つきもしっかりしていて理知的な雰囲気である。

 知的という点では、袴姿に本を持たせ、女学生の雰囲気の一蝶という娼妓の写真もある。本棚、机の傍らにバイオリンを弾く格好で写っている娼妓もいる。

 他にも、横長の椅子に身を横たえるように座った娼妓、煙草盆が置かれキセルを持って座っている娼妓、羽織に肩掛けで花籠を持った娼妓、花びらを顔のそばに近づけ見つめる娼妓など様々である。

採光のためか大きな窓が目立つ冨重写真所(2026年撮影)©文藝春秋

 写真が極めて高価だった時代に、自ら写真館を訪れてブロマイドをつくる。その構図も、官能的というより気品を感じさせるものばかりで、二本木遊廓の一流の娼妓であるというプライドを感じるのである。

貧しい農家などの娘を売買

 少女たちはどのようにして二本木遊廓に売られてきたのだろうか。

 明治42年(1909)に発刊された『熊本の遊びところ』には、二本木遊廓の各店ごとの紹介と主な娼妓の源氏名、実名、出身地が記されている。一流どころの妓楼を見てみると、三橋楼は、大阪、兵庫、愛媛、下関、神戸、和歌山、京都、名古屋など関西方面が多く、九州では大分、長崎の島原が多いが、県内では阿蘇、天草が多い。東雲楼は京都、福岡、長崎、佐賀、大分と熊本県外も多く、県内では飽託郡、八代市、山鹿、宇土と各地に広がっている。とくに大正期や昭和初期は農家の生活苦は深刻で、少女たちは“口減らし”のために売られた。男子の場合、次男、三男は軍隊に志願させられた。