よほど客がとれないと借金は減らない仕組み
大正14年(1925)に入江護幸が著した『南國紅燈夜話―熊本花流史』という本によれば、娘が遊廓へ売られる場合、彼女の実家に妓楼側から一定の身代金が支払われた。いわば人身売買だが、「人身抵当」という言葉で糊塗した。
貧しい農家はこの金でしのぐが、実は娘の賃金の前借りに過ぎなかった。娘はこの「前借金」に応じて決められた年季まで妓楼で働く。前借金は通常2、30円から50円が相場であった。明治30年代の小学校教員の初任給は8円から9円と言われており、現在の初任給が20万円程度として換算すれば、明治の1円は現代では2万円強の価値になる。身売金20円は現在では四十数万円、50円だと百数十万円という計算になるが、そこまでの前借金を受ける娘は殆どいなかった。
また年季というのも絵に描いた餅で、年季までに前借金を完済することは難しかった。日常の諸雑費が借金に加えられ、よほど客がとれないと借金は減らない仕組みになっていたからである。
歳を重ねた娼妓は、客が取れなくなると客引きや仲居となる。中には仲居の主任になって娼妓を庇ったり、上客をつけてやるなど、娼妓の側に立つ者もいた。うまく行けば身請けされて嫁に行く娼妓もいたが、他の格下の店へ鞍替え、つまり転売されるケースもあった。
娼妓や遊女のことを「川竹の流れの身」とも言うが、川に浮き沈みして定まらないところからそう呼ばれた。そのような境遇から、娼妓たちは「錦を纏った乞食」「畳の上の科人」「籠の鳥」などと形容された。
昭和になると大阪や福岡の久留米、長崎の島原などの出身者が見られ、熊本県内だと阿蘇、湯島(現上天草市)などが多かった。湯島は有明海に浮かぶ小島である。
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