「きれいな着物を着て、おいしいものを食べて、ただお酒の相手でもしてればいいのだから、こんな楽な仕事はない」

 女衒はどういう風体をしていたのか。『明治吉原細見記』や、映画化もされたベストセラー『吉原炎上』の著者で洋画家の斎藤真一によれば、女衒の男はおよそやさしい顔立ちで人好きのする性格であった。自分では「世話人」と名乗っていたという。

「きれいな着物を着て、おいしいものを食べて、ただお酒の相手でもしてればいいのだから、こんな楽な仕事はない」(『明治吉原細見記』、昭和60年〈1985〉)

 斎藤によれば、周旋人は娘の実家に前借金として金を渡すが、娘の実家からはその一割を、また妓楼側からも一割の手数料を取っていたという。妓楼まで連れていくまでの交通費や食費は娘の実家に請求した。

写真はイメージ ©AFLO

 周旋人にまつわる事件もあった。

ADVERTISEMENT

 大正9年(1920)11月、鹿児島県大島郡の53歳の周旋業の男が、郷里の知人の21歳の娘を凌辱する事件を起こした。看護婦志望と聞いて、熊本の医師を紹介すると連れ出し、熊本に着くと前科三犯の男と共謀して娼妓になれと強要。嫌がると料理屋で給仕奉公をせよと脅し、前借金350円で娘に渡す約束になっていたが、手数料などの言いがかりをつけて、200円余りしか渡さなかった。さらに娘を薄暗い部屋に移して娘を凌辱した。やがて警察の知るところとなって事件は明るみに出た(「九州新聞」大正9年〈1920〉11月2日)。