近隣住民たちは皆、ジュリアの状況を知っていた。夜ごと男たちが窓から忍び込むのを目撃していた。しかし誰も止めなかった。
八雲が問うているのは「誰が殺人犯か」ではない。「誰が本当の加害者で、誰が本当の被害者なのか」である。
そんな社会の周縁で起こる悲劇を見過ごすことのできない八雲が、松江時代に遊郭を完全に無視していたとは考えにくい。
松江で長らく遊郭があった伊勢宮町は現在もキャバクラなどが並ぶ歓楽街になっている。中には1927年に建てられた妓楼・米子楼が現存し今も飲食店として利用されている。戦後の資料によれば、松江の歓楽街はこう記されている。
芸者は新大橋の南にある和多見検地(原文ママ)と殿町の松江検番を合せて46軒、西17名。和多見の方が大きい。赤線は通称を黒門という。60軒に250名。共に、黒髪の濃い、唇の厚い、面長で色白な松江美人ばかり。(渡辺寛『全国女性街ガイド』季節風文庫1955年)
“遊郭”を肌で感じていたはずだ
もちろん、これは八雲が松江にいた時代から半世紀以上後の記録だ。赤線はもともとは和多見のほうにあったのが、1905年の大火の後に伊勢宮町のほうに移ったという。とはいえ、歓楽街としては場所も規模も、明治時代から大きくは変わっていない。八雲が松江に滞在した1890年代初頭にも、同じ場所に遊郭があり、多くの女性たちが働いていた。
八雲がこれを無視していたとは考え難い。
特に、八雲が最初に滞在していた富田旅館からは、大橋川を渡って目と鼻の先に遊郭があった。八雲自身、松江で人力車に乗った際、車夫から遊郭に行くものと勘違いされたという記録も残っている。外国人男性が一人で人力車に乗れば、当時の車夫にとって「遊郭へ」というのが自然な解釈だったのだろう。
八雲はこうした「誤解」を通じて、松江の遊郭の存在と、そこへ通う客の日常性を肌で感じていたはずだ。
しかし、八雲は中学校教師として松江に招かれた身である。松江ではすっかり有名人になっており、遊郭を訪ねるという行為そのものがあらぬ誤解を招きかねない。職業的な立場、そして社会的な評判を考えれば、八雲が遊郭への直接的な訪問を避けたのは当然だっただろう。