2006年のエッセイでイスラエルとパレスチナの問題に言及
昨年、雑誌「anan」の過去の連載をまとめた『オカダのジショ』が刊行され、今年はラジオでの対談をまとめた書籍が出版されるという。だが思い出すのは、今では絶版になっている『オカダのはなし』に、まだ20代の彼が書いた2006年のエッセイの一節だ。
『ヒーローの条件とはなんだろう? いまの時代はヒーローができづらく、わかりにくい時代なのかもしれない。(中略)やられている人がいて、やっている人がいて、間に入って助けに入る人がヒーローという単純な図式でものごとをはかれる時代ではないと思う。イスラエルとパレスチナにアメリカが介入したからといって、アメリカがヒーローではないように』
26歳の彼がふと書いたこの文章の一節をもって、彼の思想や政治観を語るつもりはない。プロデューサーとして米国資本と交渉しなければならない彼に、中東情勢に踏み込んだ政治的発言を求めようとも思わない。でも若き日に、ミスター・チルドレンの曲からふと連想した思いを『anan』誌に書き留めたこのエッセイには、岡田准一という人物の中心にある柔らかさ、弱者への思いがある。それはたぶん、「もはやアメリカがヒーローではない」ことを全世界が思い知らされているこの時代に、世界の観客にとって必要な感性であり、倫理観のように思えるのだ。
『イクサガミ』の成功は始まりにすぎない。おそらく今後、さまざまな国の観客が「岡田准一」という俳優兼プロデューサー、そして世界大会に出る柔術選手でもある不思議な人物に興味を持ち、日本語の情報にアクセスしようとするだろう。その時、『岡田准一は何者なのか』という問いに答えることができるのは芸能ジャーナリズムや映画批評の記事ではなく、もしかしたら日本のファンダムによって蓄積された彼の過去の言葉や映像なのかもしれない。
彼は何者で、どのように成長してきたのか。社会の弱い立場の人についてどのような姿勢で接し、どんな発言をしてきたか。世界の新しいファンたちはたぶん、日本のファンたちがさまざまな場所に書き留めてきた日本語の情報を翻訳して知るのだろう。
そしてたぶん、彼の子供たちは、少年時代の岡田准一がそうしたように、あるべき大人のロールモデルを探して苦しむことはもうないのだろう。彼らのヒーローの背中は海の向こうではなく、彼らの手をのばせば届く場所にあるのだから。
