大変な人たちだった私の父母
上記の部分にはわかったようなことを書いたが、実をいえば、それは、私自身の体験に基づく苦い内省あってのことだ。私の父母もまた、相当に大変な人たちだった。
父は、今川氏の分流が創姓したといわれる、周囲からやや孤立した村の出身で、その一族には、日本人の規格からいくぶん外れた、独立独歩の人間が多い。父の父親も若くして事業を起こし大きな成功を収めたのだが、早く亡くなってしまい、父とその異母妹は、彼らの祖母によって育てられた。
おそろしく勝気な人間だったこの祖母は、彼女が溺愛していたもう一人の息子に先の事業を任せた。彼は、たちまちのうちに事業をだめにし、子どもたちのためにとっておかれていた多額の遺産をも蕩尽した。さらに、父の祖母は、「この子はどの大学にでも入れるのだから、学校だけは続けさせるように」という先生たちの説得をも、にべもなくはねつけてしまった。こうして、父の運命は大きく狂わされることになった。
母は、そんな父に全面的に依存しながら生きていたが、思い込みと執念は異常なほど強い人で、何事も自分の思い通りにしないと気がすまない、というところがあった。
そういう親たちだったからこそ、子どもたちを東大に入れるなどということを、既定の方針とすることもできたのだろう。そのころには今よりもかなり難関だった東大法学部という私の進路は、いつの間にか決められてしまっていた。また、父は、兄が東大に1浪したことを苦々しく思っており、何度も「慢心していたから落ちたのだ」と口にし、母もそれに同調していた。それはつまり、私にはただ1回の失敗も許されないことを意味した。
しかし、これは本当に無茶な話である。この付加的な要請は、ほぼ親の見栄から発した、無意味かつ非常に残酷なものだったのだが、私の親たちは、そのことにほとんど気付かなかったようである。
私は、仕方なく、名古屋の名門校であった私の高校で、文系1位の成績をほぼキープし続けていた。できれば1回で合格してほしいというならともかく、絶対に1回で合格せよというなら、通常の合格ラインよりもかなり高いポイントを保っておくほかないからだ。子どものころから高校生時代までの重圧には、いうにいわれぬものがあった。
