両親が持っていた学問に対する“手放しの信仰”

 この一事からも明らかなとおり、両親の私に対するコントロールは、実に徹底したものだった。父は、教育はあまり受けられなかったものの議論では圧倒的に強かったし、母は、すべてのことを思い通りにしてやらないと気がすまない。それでも私が何とか「もった」理由については、それぞれから譲り受けたものがあったからというのも事実だが、私の小学校があった地域の、時代に取り残されてまどろんでいるような古い下町のやさしさに助けられたこと、また、書物と芸術という逃げ場、サンクチュアリだけは確保できていた(両親もそれには口をはさまなかった)ことが大きい。

 私の両親は、上記のことからもわかるとおり、学問に対しては、ある意味手放しの信仰をもっていた。父は、戦争の時代に教育勅語も軍人勅諭も暗唱せず、それでも殴られることはなかったというくらいで、相当の批判的精神、反骨精神の持ち主だった(もっとも、そうしたことは、何かのついでにぼそっとつぶやくだけなので、細かいことまではわからない)。それでも、学問や学歴についてはきわめて弱かった。

 その父は、私が裁判官になって留学もしてからは、人間が変わった。私の幼いころには面倒見のよい父親だったのだが、そういう部分が戻ってきた。兄の反抗、また、自分自身が大動脈瘤という致命的な持病を抱えたことも、大きかったと思う。相変わらずという部分もあったにせよ、全体としては、あきらめを知るやさしい人間となっていった。

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 ところが、母のほうはこじれてきた。そして、父が76歳で急死すると、支えを失った痛手も手伝って、思い込みの強さが妄想に近いものにまで発展していった。結局、大病院の老人病棟から、北関東にある至れり尽くせりの老人ホームに移ってもらうことになった。家に置くことは実際上不可能だったからである。

 けれども、母はこれが不満でたまらず、訪問しても、電話でも、思い込みが相変わらず強い上に、「子供なんか産んでも何にもならない」、「本など書いても無意味だ」等々の暴言さえ吐くので、とうとう、私も疲れ切り、というより心理的な拒絶反応が起こってしまい、最後の数年間は、ホームから求めがあったときにしか会いにゆかなかった。