「裁判で否定すればいい――」

 焼け跡から一家4人の遺体が見つかった放火殺人事件で、警察が目を付けたのは“素行不良”と噂された一人の青年だった。物証は乏しい。それでも捜査は止まらない。無実の男性を「死刑」に導いた警察が送り込んだスパイとは?

 昭和30年、日本で実際に起きた冤罪事件を、新刊『世界で起きた恐怖の冤罪ミステリー35』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む

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写真はイメージ ©getty

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4人が犠牲となった放火事件

 1955年(昭和30年)10月18日午前3時30分ごろ、宮城県志田郡松山町(現・大崎市)の農家が放火されて全焼、焼け跡から家主の小原忠兵衛さん(当時54歳)、妻のよし子さん(同42歳)、四女の淑子さん(同10歳)、長男の優一くん(同6歳)の4人の焼死体が発見された。

 同県警古川署と仙台地検は一家心中、失火による逃げ遅れ、放火殺人の3つの観点から現場検証を実施。結果、長男以外の頭部に鉈様の刃物で切りつけられた痕があったことから、警察は放火殺人事件と断定し、同署松山町巡査派出所に捜査本部を設置、66人態勢で犯人逮捕に乗り出す。

 殺害手段が残虐なこと、被害者の妻に異性関係の風評があったことなどから、警察は当初、痴情の線で捜査を進め、妻と関係があったとみられる男性から事情を聞く。

 一方、被害者の主人が家の増築工事に着手していることから小金を貯めているとの情報もあり、一部の捜査員は物盗り説を主張。その容疑者として浮かんだのが隣町に住む斎藤幸夫さん(同24歳)だった。

 斎藤さんは真面目な家庭にいながら、家の米を持ち出して売り払い、遊興費に充てているなどの噂があり、近所では素行不良者とみられていた。