もっとも、この時点では何も確証は得られず、捜査に行き詰まった警察が犯行当日以降に地元を去った人間を調査したところ、そこに斎藤さんもいた。調べてみると、同年11月ごろに知人を殴って全治10日の怪我を負わせ相手と示談した後に上京、現在は東京都板橋区の会社に勤務していることが判明する。

 こうした状況から警察は予断と偏見を持って斎藤さんを放火殺人の容疑者と推定、12月2日に身柄を拘束し、すでに示談が成立していた喧嘩を傷害事件に格上げし、上京を家出に見せかけた高飛びとみて別件で逮捕。取り調べで、本件の放火・強盗殺人の自供を迫った。

警察が送り込んだスパイ

 身に覚えがないと無実を訴える斎藤容疑者に対して、警察は信じられない暴挙に出る。同じ留置場内に前科5犯のスパイを送り込み、「警察の取り調べで罪を認めても、裁判で否定すればいい」と自白をそそのかしたのだ。

ADVERTISEMENT

 

 連日の厳しい取り調べに疲れ果てた同容疑者は12月6日、ついに自供。警察は8日に放火・強盗殺人の容疑で逮捕し、30日に起訴に至る。

 斎藤被告は裁判で一貫して無罪を主張した。が、1957年10月29日、仙台地裁古川支部が下した判決は死刑。

 判決文の趣旨は以下のとおりである。

〈被告人は遊興費に窮し、結婚を望んだ女性に前借金があると知って金銭入手に苦慮していた。製材業の実家で被害者(妻)が材木を買っていたのを思い出し、家の増築工事をするなら2、3万円の金はあるに違いないから盗みだそうと考え、被害者宅に赴いた。世帯主の男性とは顔見知りなので、いっそのこと一家皆殺しにして金を盗ろうと考え、風呂場の壁に立てかけてあった薪まき割りを持って寝室に押し入り、枕を並べて寝ていた4人の頭を順次切りつけて殺害。箪笥を物色したが現金は見つからず、証拠を隠滅するために家に放火した〉

 斎藤被告は判決を不服として控訴したものの、仙台高裁はこれを退け(1959年5月26日)、最高裁も上告が棄却したことで、1960年11月1日、死刑が確定する。

次の記事に続く 冤罪の補償金は7516万円、死刑は免れたが…「人生28年を奪われた」青年のその後(昭和30年の冤罪事件)