都心部の物件が急激に値上がりしている。20年以上にわたり不動産業界を取材してきた吉松こころ氏は「今ほど家が買えなくなったことを痛切に感じることはない」と語る。そんな中、10億円を超えるような高額物件を購入しているのは、主に香港や中国の富裕層だ。
ここでは吉松氏の『強欲不動産 令和バブルの熱源に迫る』(文春新書)より一部を抜粋してお届けする。“日本の不動産を中国人に売る中国人ビジネスマン”とは一体どんな経歴の持ち主なのか? そして、彼が語る「税金は高いけど買いたくなる」ほどの東京の魅力とは……。(全5回の4回目/続きを読む)
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東日本大震災の2日後に来日した
東京で不動産業を営む中国人の陳海鋒氏が、留学のため日本に来たのは、2011年3月13日だった。東日本大震災の発生から2日後で、当時23歳だった。
親は日本行きに反対しなかったのかと尋ねると、「僕が一度決めたらそれを貫いて絶対にやり切る性格なのは、両親が一番分かっていますから」とにこやかに言った。アイロンの利いた白いシャツに細身の紺のスーツに身を包んだ好青年だ。
陳氏は、広東省南西部の湛江市で、4人兄弟の末っ子として生まれた。彼が生まれた1987年は、一人っ子政策の強化期にあたるが、湛江市のような地方の農村部は、労働力として子供が必要だったこともあり、当局にお金を払うことで子供を持つことが許された。
「僕の命は日本円で8000円くらいだったと聞いています」と彼は笑うが、当時の農村部の平均年収の3倍程度に相当したはずだ。
陳氏が子供の頃、湛江市から北東におよそ500キロメートル離れた深圳が爆発的な発展の最中にあった。1980年以前、人口3万人程度の漁村にすぎなかった深圳は、経済特区となったことで外国資本が殺到し、製造業の中心として急激に発展した。
湛江市もその恩恵を受けた。建築内装業をしていた祖父や母方の叔父たちは、この急成長の波に乗った。仕事はいくらでもあった。学校が休みの日は、子供達も全員現場に出て、家族総出で家業を盛り立てた。
大工仕事を自然と覚えた陳氏は、機械いじりも好きになり、テレビや扇風機、バイクなどを片っ端から分解しては、組み立て直したりした。
大学は、広東工業大学に進んだ。卒業と同時に、横浜国立大学大学院・環境情報学府に学費免除で入学する権利を得たが、日本語が全く話せなかったため、来日後は、福岡の日本語学校に入った。10カ月後、陳氏は、晴れて横国の院生になった。
だが、留学生活は決して楽なものではなかった。アルバイトは、新横浜のプリンスホテルで時給1300円のウェイターをした。夜は研究室に戻り、実験データの処理や分析を手伝った。夜間の人の少ない静かな研究室では頭がスッキリして勉強もはかどった。そのままソファで寝てしまうことも多く、体育館でシャワーを浴びてアルバイトに通った。こんな生活だから、お金を使うことはほとんどなかった。
