「普通の顔」と「残酷さ」はどうつながっているのか

――Bと対照的なのが、Fです。『償い』を読むと、他の加害者と異なり、事件を忘れることなく向き合っている。山﨑さんが取材できたBやCと、Fの違いは何でしょうか?

山﨑 Fは殺人にまでは関わっていなかった。それでも、事件から十数年を経ても、悪夢を見るなどしていました。一方でBのように、殺人まで犯した人間の内には、事件の影が深く出来ている。あれだけ残忍な殺し方をしているのですから、フラッシュバックがある。Fですら、そうですから、Bにはそうしたものがより強くあったと思う。

 そういう時、人間は普通の状態でいられるのか。どこかで心を壊さないと、殺人の記憶に耐えられないのではないでしょうか。

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――「人間はここまで残酷になれるのか」と『償い』に書かれています。「人間のやることではない」と切り離すのではなく、我々と地続きにいる人間としてBを捉えています。

山﨑 普通の状態で彼らの行為をみたら、よくもこんな酷いことが出来るなと思います。戦争もそうですよね。家に戻れば良き父親、良き夫が、戦場という極限状態では残虐なことをやってしまう。どこかで人間はものすごく残虐になる。でも、どうすれば歯止めがかけられるか、そこの想像力があることが大事だと思います。

 ことの残酷さと、日頃見せる普通の顔。このふたつが、どうつながっているのかを見るのがジャーナリズムだと考えます。そうでなく、犯罪者は我々とは全く別の種類の人間だと切り離してしまうと、極端なものの見方に偏ってしまう。

 Bであっても、遺棄現場に何度か行ったと母親は言っている。(償いとは別に)被害者を悼む気持ちくらいはあった。彼を担当した弁護士に話を聞くと、裁判の過程で反省し悔やむ気持ちになっていった。その気持ちを生涯、持っていたかはわからないが、少なくとも一時的に持っていたのは確か。

 Bは、表情が読めないなどありますが、被害者に対して感情も持たない人間だったとは思えない。……そもそも、そんな人間はいるでしょうか。いるなら会ってみたい。

「彼らそれぞれを知りたくなる」

――『償い』の読後感として、山﨑さんは更生の意志のあるFを取材することが出来たから、その可能性を信じることができ、それとは反対のBの人生を追うことができたのでは、と思いました。

1月に刊行された『償い 綾瀬女子高校生コンクリート詰め殺人事件 6人の加害少年を追って』(文藝春秋)

山﨑 たしかに最初にFに会ったのが良かったんだと思います。彼の裁判の記録を読むと、人間の暗闇の底みたいな事件にあっても、人間性を取り戻す過程にある人の存在を知ったのは、その後の取材の推進力になった。

 その後に取材したCには、ほとんど反省や償いの言葉がない。Bに至っては再犯をしてしまう。事件の加害者それぞれが、微妙に反省の度合いも違えば、その後の生き方も違う。当たり前といえば当たり前ですが、取材によって彼らそれぞれを知りたくなる。

 この事件の加害者の取材を始めて25年以上が経ちますが、振り返るとそういう感じです。

写真=橋本篤/文藝春秋

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