弁護側も「物的証拠はなく、事件当日に被告が島田市にいなかったことは明らか」として無実を訴えた。そこで同地裁は、財田川事件にも関わった東京大学教授の古畑種基に被害者の殺害方法について再鑑定を依頼する。

 というのも、赤堀被告の警察での自白が、被害者の遺体の解剖を行った県警の監察医・鈴木完夫の鑑定書と整合性が取れなかったからだ。

 自白では、女児に対する最初の危害は強姦で、その際に女児は泣き叫びながら暴れた。近くにあった石を拾って女児の左胸に力いっぱい打ちつけたところ、泣き声がやみ、目を閉じたので、「いっそ殺してしまえ」と思い、首を絞めた、とある。

ADVERTISEMENT

 一方、鈴木鑑定によれば、被害女児の左胸部の傷は生活反応がなく死後のもので、自白と矛盾していた。また同鑑定は、外陰部の傷についても、周囲に生活反応がほとんどなく、付近に外傷が認められず、この傷が生じたときに女児の抵抗はほとんどなかったとしていた。

 対して古畑鑑定では、胸部の傷は生前のものであるとし、被害者は「まず押し倒されて姦淫され、胸部を鈍体をもって殴打され、次に頸部を手でもって扼殺されて死亡するに至った」と、自白に合うように犯行の順序が説明された。

判決は…

 古畑教授は後に多くの冤罪に荷担した「検察の御用学者」と見なされているが、静岡地裁は古畑鑑定によって科学的裏付けが取れたものと判断。赤堀被告のアリバイ主張を退けるとともに、「軽度の知能障害があり、精神病の前歴と放浪傾向がある」同被告が、捜査段階の自供を翻したのは信用性に欠けるとして、1958年5月23日、死刑判決を言い渡す。

 その後、東京高裁と最高裁もそれぞれ控訴と上告を棄却し、1960年12月26日、刑が確定する。