東日本大震災で母と娘を失い、その体験を身を切るようにして話している男性がいる。
福島県いわき市の学習塾代表、鈴木貴さん(50)。2人が待つ家の前まで車で駆けつけたが、津波に背後まで迫られ、逃げざるを得なかった。あの日、何が起きたのか。何が生死を分けたのか。(全4回の1回目/つづきを読む)
◆◆◆
車が左右に跳ねるほどの揺れだった
2011年3月11日午後2時46分、貴さんはガソリンスタンドで給油していた。当時塾長を務めていた学習塾は内陸部にあり、海岸の近くにあるアパートから出勤する途中だった。
「長くて激しい揺れが始まりました。車が左右に跳ねるほどでした。スタンドのおじさんが給油口からホースが抜けないよう必死に押さえます。私は急いで車を降りました。地面がぐにゃぐにゃになっているような感じで、立っていられずに座り込みました」と振り返る。
「すぐに帰らないと」と思った。鈴木家は5人家族になったばかりで子供は3人いた。豊間小学校の4年生だった長女の姫花さん(当時10歳)を筆頭に、豊間保育園に通っていた長男、そして半月前に生まれたばかりの二男だ。その時、アパートには妻と二男がいた。道路には亀裂が入り、ブロック塀が崩れるなどしていたが、なんとか帰宅できた。借りていた2階の部屋では棚が倒れ、電子レンジも床に落ちていた。建物に見た目の損壊はなく、妻と二男にもケガはなかった。
車でアパートを出て、娘たちのもとへ
姫花さんと長男はまだ帰宅しておらず、妻が「迎えに行って」と言った。
小学校は2kmほど離れた薄磯地区にある。保育園はさらに1.5kmほど先の豊間地区だ。
車でアパートを出た貴さんは「あっ、屋根」と思った。新居を建築していて、この日の午前中に瓦上げをしていたからだ。職人が屋根から落ちるなどしていないかと心配になった。建築現場は迎えに行く途中にある。急いで立ち寄り、棟梁に「誰もケガをしなかった」と聞いて胸を撫で下ろした。
その場所に家を建てようと思ったのは、徒歩5分の薄磯地区内に実家があったためだ。母・明美さん(当時62歳)が住んでいた。
建築現場を車で出て、実家の前に差し掛かると、明美さんが外に出ていた。貴さんは車を止めて窓を開けた。




