「ばっぱ(お婆さん、東北の方言)の手を放せ!」。あの日、一緒に逃げようと握っていた92歳の女性の手を振りほどき、迫り来る津波からギリギリで逃げた夫妻がいる。

 福島県いわき市の薄磯(うすいそ)に住む大谷慶一さん(77)、加代さん(73)だ。

右から大谷慶一さん、加代さん夫妻(いわき市平薄磯)

 どうしてそのような事態になったのか。夫妻は「いわき語り部の会」に属しており、自らの心をえぐるようにして辛い体験を話す。(全4回の3回目/つづきを読む

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救えたかもしれなかった児童2人の命

 東日本大震災が発生した2011年3月11日は金曜日だ。薄磯の地区内にある豊間(とよま)小学校は集団下校の日だった。

 家の前が通学路になっている大谷夫妻はちょうど外に出ていて、「みんな、気をつけて帰るんだよ」と声を掛けた。

 その時、激しい揺れに襲われた。

 午後2時46分、児童らは泣き叫びながら家の方に走り去った。

「もし『学校に戻りなさい』と大声で呼び掛けていたら助かっていたのではないかと、今も後悔しています」と加代さんは話す。小学校の校舍は浸水をまぬがれたからだ。

 薄磯では小学生が2人、津波に呑まれて亡くなった。1人は祖母とともに、もう1人は母親と一緒に。いずれも「気をつけて帰るんだよ」と声を掛けた子だった。祖母宅で犠牲になったのは4年生の鈴木姫花さん(当時10歳)である(#1〜#2に詳述)。

 揺れは経験したことのない激しさと長さだった。「もういい加減に収まってくれと心の中で叫び続けました」と加代さんは言う。夫妻は立っていられずにしゃがみ込み、「裏山が全体で動いているように見えました」と語る。

双眼鏡を手に、200メートル離れた海岸へ

 家は瓦が落ち、壁に大きな亀裂が走った。「直すのが大変だな」「地震保険に入っているから何とかなるよ」などと話しながら家の中へ入る。水道も電気も止まっていて、テレビは点かなかった。

 慶一さんが車のラジオを点けると「津波が来ます。高台へ避難して下さい」とアナウンスが聞こえた。市内の小名浜港では津波の到達予測時間が午後3時10分とされていた。

 慶一さんが腕時計を見ると、ちょうどその時刻だった。「なんだ。大騒ぎしたけど、また津波なんて来ねえべ」と吐き捨てた。「ちょっと見てくる」と、釣りに使う双眼鏡を持ち、200mほど離れた海岸へ歩いて行った。

薄磯海岸に鳥が飛ぶ

 実はこの頃、津波の第1波は薄磯に到達していたと見られる。その2分前の午後3時8分、小名浜港で2.6mの津波を観測していたのだ。薄磯の防潮堤は当時4.7mの高さがあり、陸地に浸水しなかっただけだった。