「津波は来ないのだろう」と考えていた
中には事態の深刻さを察知した人もいた。薄磯の防潮堤は揺れで倒壊した箇所があり、そこから第1波が進入した。これを目撃した女性が「津波が来た」と叫びながら事業所に駆け戻り、働いていた人を避難させた。女性の声を聞いても本気にせず、「約10mの大津波」(薄磯地区の慰霊碑)となった第2波で命を落とした人もいた。
慶一さんはそうしたことが起きていようとは知りもしなかった。加代さんも毎日何度も海を見に行く夫が言うのだからと、「津波は来ないのだろう」と考えていた。
大谷家の2階には洗濯物が干したままになっていた。加代さんが取り込みに上がるとサッシが割れていた。本棚なども全て倒れていて、「やれやれ」と思う。当時飼っていた2匹のヨークシャーテリアがおびえて鳴いていた。2匹まとめて左腕に抱え、辺りの片づけを始めた。屋外では近所のブロック塀が全て倒れていて、歩けるよう脇へ寄せた。
作業をしていた時、近くに住む92歳の女性のことを思い出した。「今日はデイケアを休むので、何かあったらよろしくお願いします」と出勤する家族に言われていたのだ。「1人でどうしているだろう」と外から声を掛けても返事はない。ケガでもしていないかと鍵の掛かっていない玄関から上がると、コタツで横になっていた。
「いやぁ、おっかなかったな」と不安がるので、加代さんは「うちへ行こうよ」と起こした。体格がいい。脚が悪くて杖をついているので、なかなか歩けない。加代さんも左腕に犬を2匹抱えたままだった。それでもなんとか女性の手を引き、大谷家の横まで連れて来た。すると、別の70代の女性が歩いて来た。「墓がどうなっているか見に行った夫が帰って来ない。心配だから行ってみる」と言う。
「逃げろぉ。とんでもねえものが来るぞ」
そんな話を3人でしていると、慶一さんが血相を変えて走って来るのが見えた。
「逃げろぉ。とんでもねえものが来るぞ」。声を張り上げていた。
慶一さんは海岸で何を見たのか。
「海の水がなくなって底が見えていました。じっと見ている暇はありません。目にした瞬間に逃げたのですが、『夢でないか』と信じられず、また海岸に戻りました。あり得ない光景だったからです。やっぱり間違いない。一目散に家を目指しました」
津波の第1波が引いて、沖合まで海底が露出した状態だった。それほどの引き波なら、押し返して来る第2波は極めて大きくなる。慶一さんは異様な光景に慌てて引き返し、沖を見るために双眼鏡を持っていたことすら忘れていた。必死だったせいか、その後のことは記憶にない。
走って帰るまでには多くの人を助けたようだ。のちにお礼を言われるなどして分かった。慶一さんの「逃げろ」という声が聞こえて、家の中から飛び出した女性。慶一さんが手を引っ張って逃げた子供。「お金を取りに家に戻る」「バッグを取って来る」というのを慶一さんが叱りつけ、身一つで逃げて助かった祖母と孫娘——。
加代さんは「逃げろぉ」と走って来る慶一さんが、小さな子の手を握り締め、後ろから数人の「おばちゃん」が追いかけて来るのを見た。





