福島県いわき市の学習塾代表、鈴木貴さん(50)は2011年3月11日、東日本大震災による津波で母と娘を一度に失った。その辛い体験を身を切るようにして高校生に話すなどしている。「自分は家族を助けられなかった。同じことを繰り返してほしくない」。その切実な思いは震災を経験していない若者にひしひしと伝わっている。
太平洋に面したいわき市の薄磯地区。津波が防潮堤を越えて押し寄せたのは地震の発生から約40分後の午後3時27分頃だ。のちに地元の建立委員会が建てた慰霊碑には「約10mの大津波」と記されており、122人の犠牲者名が刻まれている。
そのうちの2人は、貴さんの母・明美さん(当時62歳)と、豊間小学校の4年生だった長女・姫花さん(当時10歳)だ。2人は明美さんが住む貴さんの実家で行方が分からなくなった。(全4回の2回目/つづきを読む)
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がれきをひっくり返して捜した
発災直後、貴さんは薄磯へ立ち入ることさえできなかった。妻や他の2人の子と一緒にとりあえず職場の塾へ避難し、夜明けを待って現場へ向かった。
初めて目にした薄磯の惨状は目を覆わんばかりだった。まちへ向かう道路は瓦礫に埋もれて近づくことさえできない。貴さんは山裾を伝ったり、瓦礫を乗り越えたりしながら実家を目指した。
薄磯のまちでは太平洋と並行して道路が南北に走り、その両側に家が建ち並んでいた。しかし、海側の家はきれいさっぱりなくなっていて、水が一面にたまっていた。空が青く、穏やかな太陽に照らされて、キラキラと輝く。対照的に道路の山側は瓦礫だらけだった。貴さんの実家はこちらにあり、ボロボロになった白い外壁の残骸が立っていただけだ。津波に破壊されたうえ、火事まで起きたらしい。まだ白い煙が上がっていて、靴底が溶けてしまうほど熱かった。
貴さんは瓦礫を引っくり返すなどして2人を捜したが、家にあった物さえ見つからなかった。辺りには同じように家族を捜しに来た人がいた。
少し離れたゴルフ場に「たくさん避難している」と聞いたが、いなかった。周囲の避難所は、既に薄磯に到着する前に捜し歩いていた。





