政府保有の金を聯銀・儲備銀に売却することに決まり、手続きは正金銀行が担当することになった。正金銀行の上海支店と天津支店に保管されていた、政府名義の金塊約17トンがこれに使われた。聯銀には8月18日に3トン、儲備銀には8月14日から9月3日にかけて14トンが売却され預け合い勘定は清算された。
この清算を急いだのは、各銀行が連合国軍側に接収されると金銀の売却が自由にできなくなるためだ。実際に昭和20年9月13日に儲備銀総行(本店)、10月17日には聯銀総行が蒋介石国民政府に接収され、その後は各分行(大型支店)・支行(支店)に接収は広がった。
金価格は1年で「45倍」
これに加えて、金の市場価格が急騰していたことも金売却を急がせた。表4-1に見る通り、中国での金の市場価格は終戦前の約1年で45倍以上に膨れ上がっていた。
預け合い勘定清算の責任者である大蔵省外資局長の久保文蔵にとって、これは「千載一遇の好機」だった。
実際に、終戦の翌月には金の市場価格は5月に比べて約20分の1に急落した。もちろん、終戦直後の日本による金塊売却が市場価格の低下を促したに違いない。結果的に久保は、金の価格高騰を捉えて売り抜けることに成功した。
外資金庫は日本の戦費として5228億円を支払ったが、この殆どが特殊銀行2行を経由して、聯銀と儲備銀から借りた形となっていた。これに対して、8~9月にかけて行われた金売却の代金は4978億円だった。外資金庫を通じて借りていた日本の戦費の、実に95%が金の売却で瞬時に清算された。その他の資金も含めると、最終的に外資金庫の借り入れ返済に充当された金額は5026億円に上った。
昭和20年の値は無いが、昭和19年の日本の国民総生産(GNP)が745億円である。この7倍に迫る金額が戦費として占領地の親日政権中央銀行から借り入れられ、そして終戦に際して即座に返済された。
17トンの金塊がどれ位のものかというと、終戦時(昭和20年8月25日現在)の日本銀行が保有していた金地金は105トンだった。また当時のドイツは日本以上に金に不足しており、1944年末のドイツ帝国銀行(中央銀行)の金保有残高は30トンであった。このためドイツは戦争中、日本に対する軍事技術供与の対価として金の現送を要求し、昭和18年に4トン、19年には2トンの金塊が潜水艦でドイツに運ばれた。ただし19年の2トンは輸送を担当した「伊五二」潜水艦が大西洋で撃沈されて海没した。
参考までに1945年末の米国の金保有高は1万7831トン、英国が2418トン、フランスが1886トン、イタリアが77トン、ドイツに至っては6トンに過ぎなかった。
戦争中、日本は採算を度外視して産金に努め、昭和15~20年の間に189トンを産出した(表2-4)。
もっとも昭和18年以降は、労働力不足から産出量は大きく低下した。

