1968年、静岡県の温泉地で一人の男が旅館に人質を取り、ライフル銃とダイナマイトを手に警察と対峙した。「危害は絶対に加えない」と語りながら、マスコミを通じて自らが受けてきた差別を訴え続けたその男は、在日朝鮮人の金嬉老だった。

 暴力団員2人を射殺した直後に始まったこの籠城は、テレビや新聞を巻き込みながら全国の注目を集める。後に“日本初の劇場型犯罪”とも呼ばれることになる金嬉老事件は、なぜ起きたのか。鉄人社の新刊『高度経済成長期の日本で起きた37の怖い事件』より、その発端をひもとく。(全2回の1回目/続きを読む

旅館の家族や宿泊客らを人質に立てこもった「金嬉老事件」の舞台となった旅館「ふじみや」(写真:時事通信社)

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「かい人21面相」によるグリコ・森永事件(1984~1985年)で世間に広まった言葉がある。劇場型犯罪。社会の注目を集める目的でテレビや新聞を利用し、まるで映画や芝居など見世物を楽しませているように思わせる特殊な犯罪だ。

 1968年(昭和43年)、静岡県で暴力団員2人を殺害した後、旅館に人質を取って籠城、マスコミを通じて自身が受けてきた朝鮮人差別を訴えた金嬉老(韓国名キム・ヒロ)の事件は、日本初の劇場型犯罪である。

日本初の劇場型犯罪を犯した男

 金は1928年(昭和3年)に朝鮮に生まれ、まもなく両親とともに静岡県清水市(現・静岡市清水区)に移住した後、掛川市に転居した。丹那トンネル工事にも従事した父親の姓は権(クォン)だったが、1931年に港の荷役作業中に事故死。2年後、母親が金という姓の男性と再婚したため自身も金となる。日本名は近藤安広、また金岡、清水とも名乗り、計7つの名前があったそうだ。

 家庭の貧しさからろくに学校に通うこともできず、小学校を5年で中退し丁稚奉公に。1943年、窃盗で捕まり、朝鮮人だけの少年院「相愛少年保護院」で敗戦を迎えた。当時の金は、特攻隊の制服で白い絹のマフラーを巻いて歩き回っていたという。

 戦後まもなく出所するも、1946年に再び窃盗・横領罪で逮捕、服役。このころ金の家族は朝鮮に帰国することを考えていたが、北緯38度線の北をソ連、南をアメリカが占領、朝鮮半島全体の情勢が混沌としていたため断念し、日本に定住する道を選ぶ(朝鮮戦争勃発は1950年)。