2万人以上が暮らしたマンモス団地

 というのも、武蔵野線開業と同じ1973年4月から、みさと団地の入居が始まったのだ。当時の日本住宅公団によるみさと団地は、大場川西側の北地区とららぽーとの南側に広がる南地区をあわせて1万戸近く、実に2万人以上が暮らすマンモス団地だ。

 

 中川と江戸川に挟まれた三郷の町は、江戸時代には舟運で栄えた歴史を持つ。しかし、明治以降には鉄道に恵まれなかったこともあって、農村として歴史を刻む。それが結果として、戦後の高度経済成長期にも広大な田園地帯という、いわば“開発の余地”を残すことになった。

 かくて1960年代から、境界を接する東京側から少しずつ都市化の波が押し寄せ、そして武蔵野線の開通を機にマンモス団地の建設に至ったのである。

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 その時点ではまだ吉川美南駅も新三郷駅もなく、あるのは広大な操車場。団地の人々は、バスで三郷駅まで行くしかなかった。もちろん住民は駅設置を求めたのだが、国鉄はなかなか首を縦に振らなかった。

 何しろ、武蔵野線は沿線住民のためではなくて、貨物復権のための大勝負。せっかくそこに最新鋭の操車場があるのに、わざわざ駅を設けるつもりなどなかった……のかもしれない。

 ようやくみさと団地の人々の悲願が成就して新三郷駅が開業したのは、武蔵野操車場が事実上廃止された翌年、1985年のことだ。

 

 ただ、このときには上り線と下り線のホームが300mも離れていたという。その間には武蔵野操車場の跡地たる敷地が広がっていたからだ。

 新三郷駅から通勤・通学する人たちは、朝か夜かいずれかで、きまって300mの跨線橋を歩かねばならなかった。時間に追われる朝などは、息も絶え絶えに300mダッシュをした人もいたことだろう。