「ポピュリスト=悪」ではない

 事態が目まぐるしく動いているさなかには、何事かを言ったとしても、往々にしてピントがずれたり、見当違いなことになってしまいかねません。それでも、日本のポピュリズムをめぐる現状と展望について、少し述べておきたいと思います。

 注意しなければならないのは、ポピュリストという言葉は往々にして、誰かを批判するときに使われるものだということです。メディア取材などの折に、「○○はポピュリストなのか、そうではないのか」とたずねられることが本当に多いのですが、それはおそらく、「○○は悪い(もしくは危険な)やつなのか、そうではないのか」を無意識に問うているのではないのでしょうか。

 私はまず、「ポピュリスト=悪」とはとらえていません。この点に限っては、かつてのポピュリスト政治家、橋下徹と一致するのですが、「正しいポピュリズムと間違ったポピュリズムがある(*1)」とみたほうがまだしも適切です。

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橋下徹 ©文藝春秋

 何が正しいかは人それぞれです。右派市民は右派のポピュリストを正しいとみなし、左派市民は左派のポピュリストを正しいとみなすということです。もちろん、ポピュリストというあり方そのものに批判的な立場もありえます。

 話を戻しますが、ポピュリズムという言葉が浸透してこの方、なんでもかんでも「ポピュリズム」とみなしてしまう風潮があります。これはあまりいいことではないと思います。ほとんどは「大衆迎合主義」、つまり普通の人々に媚こびて、税金を下げたり、給付を増やしたり、誰かをつるし上げたり、といったときに使われるようにみえます。

 それをポピュリズムと呼ぶのは自由ですが、私は区別したいと思います。あくまでも、エリートと普通の人々との対立という構図のなかで、世間の常識の勝利を主張するのがポピュリストです。「どれどれ、大衆が喜ぶだろうから税金を減らしてやろう」という上から目線はポピュリズムではありません。

 この見方からすると、河村のポピュリスト純度はきわめて高いものがあります。また、往時の橋下もそうでした。それに比べると、小池や石丸はポピュリスト的な対立の構図を使うことはありますが、その純度はあまり高くありません。むしろ、れいわ新選組や参政党などのほうがよりポピュリスト的であるように思われます。

 一方、このところ注目されることの多かった国民民主党はポピュリスト政党ではありません。もともとがそうした発想で結党されたわけではなく、単に普通の人々が喜ぶことは何か、という視点を玉木が突き詰めた結果が一時の躍進につながったといえます。しかし、普通の人々の常識がエリートのそれに優越するという発想が中心にあるわけではないと私はみています。むしろ、何かにつけ給付的な施策をしたがる公明党の発想に近いのではないでしょうか。