筆者は作家になる前、長く下っ端の公務員をしていた。

 人事異動の時期になると働いていた頃のことを思い出して胃が痛くなる。新しい職場へ行くと上司や先輩がつくり笑顔を見せ、後になって自分の担当業務がトラブル事案の寄せ集めになっていることに気づく。そうやって、何も分からない下っ端の新参者に面倒をまとめて押しつけるのである。

 はっきり言おう。どの組織も下っ端には人権がない。

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馬伯庸『長安のライチ』(文藝春秋)

不屈の小役人、ライチを運ぶ2500kmの道のり

 それはさておき『長安のライチ』である。

 中国史をあまり知らなくとも、楊貴妃の名前を知っている人は日本でも多いだろう。そして、彼女がライチを好んだことも、彼女を溺愛した玄宗皇帝が彼女のためにライチを南方から運ばせたことも知っている人は多いはずだ。

 しかしライチは足が早い。物語は、三日で味が変わってしまうライチを「生の状態」で、遠い嶺南から長安の都へ運ぶ(その距離約2500km!)という実現不可能なミッションが下ることから展開する。

 皇帝の勅令であり達成できなければ罰を受ける。命令を受けることはすなわち死を意味する。そんな無茶な役目を押し付けられたのは、立場の弱い小役人――主人公の李善徳だ。ああ、まったくもって他人とは思えない。

 李善徳は知恵者の諸葛孔明ではないし、筋斗雲で空を飛ぶスーパースターの孫悟空でもない。ちょっと数字に強い、どこにでもいる非力な人間である。そんな小さな存在が、どうやって不可能を可能にするのか。どう考えても無理で、古今東西割りを食うのはやっぱりヒラなのかと、万年下っ端の筆者は胸が苦しくなる。『長安のライチ』はそんな理不尽な「運命」に「一矢報いるため」、主人公が死力を尽くす物語なのである。

 作者の馬伯庸は、中国でもっとも人気のある歴史小説家のひとりであり、様々な趣向の作品を手掛けているが、代表作である中国版24(トゥエンティフォー)『長安十二時辰』や「このミステリーがすごい!2025年版」で1位を獲得した『両京十五日』のような時間制限物を書かせたら右に出る者はいない。そして、この『長安のライチ』も楊貴妃の誕生日までにライチを運ぶというタイムリミットがある。次々と降りかかる困難に、主人公があの手この手で立ち向かっていく過程が巧みに描かれ、常に緊張感が途切れない。これをたった11日で書き上げたのだというから感嘆してしまう。

 なにより、本作の最大の面白さは「人間の力」にあるだろう。ミッション達成を目指す中で、ラッキーは起こらない。むしろ不運ばかり降りかかり、あくまで李善徳は自らの力と人柄で乗り切っていく。立場の違う商人や奴隷との友情を深め、困難の道を突き進んでいくのだ。

 大体、「運命に一矢報いろ」と李善徳を奮い立たせる人物が、全中国不遇代表といっても過言ではない詩人の杜甫というのが最高である。

 杜甫も相当な苦労人であり、権力者に仕官を阻まれ続け、やっと官職に就いたと思えば大乱に巻き込まれ、同時に家族の不幸に見舞われるという不運が続く。そして彼こそ、不遇の中で運命に一矢報いようとした歴史上の有名人なのである。(杜甫の生き様にご興味がある方は、彼が主人公の拙著『飲中八仙歌 杜甫と李白』をお手に取っていただきたい)。

千葉ともこ『飲中八仙歌 杜甫と李白』(新潮社)

 物語の世界は理不尽に満ちている。権力者は、自分の立場や面子のためなら民がどうなってもいいと思っているし、現場の小役人なんて何人死んでも構わないと考えている。強者は免除されるのに、弱者は何をするにも煩雑な手続きを強要され、民も過重な税を取られる。

 さて、この理不尽は昔の外国特有の事情だろうか? 「いや今の日本だって同じだ!」と感じた方も多いだろう。官僚機構の弊害やら、人間が営む社会は結局同じ問題や苦しみを抱える宿命にあるのかもしれない。

 そう、不思議なことに小説を読み進めていると、唐の時代の小役人の話ではなく、読者である自分の物語として感じられてくるのだ。

 それは単に私の個人的な境遇ゆえのものではない。馬伯庸作品の魅力は、卓越したストーリーテリングにだけではなく、彼の全作品に通底する不変のヒューマニズムにあるからだ。それは社会への鋭い視線や弱者への眼差しに基づくものではないかと思う。

 その一例として女性の描き方がある。歴史小説は舞台の時代性から女性を描写する際に工夫が求められ、時に定型的、差別的な書き方に陥りがちだが、馬伯庸はどの作品でもひとりひとりの女性の人間性を丁寧に描いており、現代人も安心して読める。

 また、物語のラストには杜甫の有名な詩『春望』で描かれる「国破れて山河在り」の世界――戦争の無情が漂う。国際情勢が落ち着かない今、まったく他人事に感じられない。

 『長安のライチ』は昔話ではない。今を生きる私たちに向けて綴られたエールの物語なのだ。

 なお、『長安のライチ』は翻訳小説の刊行に先立って日本でも映画が公開されている。物語の魅力を最大に引き出す映像の効果が施されており、ぜひ小説と併せて楽しんでいただきたい。先に映画を観た方も、小説は池田智恵、立原透耶両氏の巧みな翻訳によって、馬伯庸の豊富な歴史知識に基づく世界観や人物の息遣いを感じることができる。物語に没頭できること請け合いなので、ぜひ李善徳の不屈の精神を小説でも味わっていただきたい。

ちば・ともこ/茨城県生まれ。筑波大学日本語・日本文化学類卒。松本清張賞を『震雷の人』で受賞して小説家デビュー。2作目の『戴天』で日本歴史時代作家協会賞新人賞を受賞。ほかの著作に『火輪の翼』『飲中八仙歌 杜甫と李白』がある。

長安のライチ

馬 伯庸,池田 智恵,立原 透耶

文藝春秋

2026年3月26日 発売

飲中八仙歌:杜甫と李白

千葉 ともこ

新潮社

2025年12月17日 発売

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