自発的解体への反発

 小弥太は社長に就任すると、三菱合資の各部門を分離させ、三菱造船株式会社、三菱商事株式会社、三菱鉱業株式会社、三菱銀行株式会社を設立。これらの財閥直系企業は三菱財閥で「分系会社」といわれた。分系会社を分離した結果、三菱合資は持株会社の性格を色濃くしていった。1937年に三菱合資を改組して株式会社三菱社、1943年には株式会社三菱本社と改称し、財閥本社として分系企業を統理助長する本社という位置付けを明確にした。また、「国家と共に」という信念から重工業路線を邁進させ、戦後の三菱興隆の基礎を作った。小弥太は身長180センチメートル、体重130キログラムという巨漢。強いリーダーシップと広い包容力で、「大社長」と慕われた。

 1945年8月に第二次世界大戦が敗戦を迎え、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は四大財閥を自発的に解体させようとした。他財閥が次々と解体を表明する中、小弥太は「三菱が国家社会に対する不信行為をした覚えはなく、また軍部官僚と結んで戦争を挑発したこともない。国家の命ずる所に従い、国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、省みて恥ずべきところは何もない」という信念に基づき、自発的な解散を拒否。GHQの指令による解体を望んだ。

 総理大臣・幣原喜重郎は三菱に厳しい処分が下されかねないと考え、23日に大蔵大臣・渋沢敬三を小弥太の下に走らせ、自発的に解体するように説得した(二人とも岩崎家の親戚である)。結局、小弥太は渋沢の説得を承諾したが、その翌日、急に悪寒を覚えて療養生活に入り、同1945年12月に東大病院で大動脈瘤破裂によって死去した。小弥太の非業の死は、残された専門経営者の結束を固める契機となった。

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小弥太の妻は島津家から

 小弥太は帰朝の翌年、1907年に結婚した。夫人は島津珍彦の次女・孝子(1888~1975)で、小弥太29歳、孝子19歳だった。

 島津珍彦は島津久光の三男で、旧薩摩藩主の公爵・島津忠義の実弟。父が養子として継いでいた分家の重富島津家を継ぎ、1889年に男爵に列せられた。分家とはいえ島津一門から嫁を迎えたことにふれ、『三菱コンツェルン読本』は「かかる歴史的の名家の子を跪かせて、閨中の人となしたるは岩崎家の威力豈盛んならずや」と驚嘆している。おそらく義兄・松方正作(というか、その父・松方正義)の斡旋によるものだろう。

 孝子の同窓生によれば、「華族の美しいお姫さまたちは当時の大富豪から所望されることが多く、学習院きっての美人で名高かった島津孝子さんは、岩崎小弥太氏と結婚された」(『八十年を生きる』)。独身主義の小弥太を説得するために、稀代の美人を連れてきたと考えるのは、穿ちすぎだろうか。というのも、小弥太の弟・岩崎俊弥もまた美人に弱かったからである。

旧岩崎邸庭園(東京都台東区池之端) ©AFLO

次男・俊弥は恋病い 

 弥之助の次男・岩崎俊弥(1881~1930)は学習院初等科から高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に転校し、1896年に同校の中等科を卒業。1899年第一高等学校理科に進み、1901年英国に留学、ロンドン大学で応用化学を学び、1902年帰朝、1904年に兵役につき近衛騎兵連隊に所属、1905年に除隊。1906年12月に大阪の実業家・島田孫市と共同で大阪市天満に大阪島田硝子製造合資会社を設立したが、工場建設計画で意見を異にした島田が離脱。翌1907年に旭硝子(現・AGC)を設立し、その社長に就任した。

 1908年に俊弥は二八歳で、廬高朗の六女・八穂(1890~1955)19歳と結婚した。廬高朗は肥前大村藩士・岩永養庵の三男に生まれ、廬家を継いだ。兵庫県に出仕し、神奈川県、大蔵省を経て大書記官になったが、病を得て退官。博多湾鉄道監査役などを務めた。その経歴をみるに岩崎家の御曹司とでは釣り合いが取れない。何か閨閥があるのか。いろいろ調べた結果、廬が日本郵船専務・岩永省一(1852生まれ)の従兄弟らしく、そこから長与専斎、松方正義、後藤象二郎とも繫がる血縁関係を見つけたのだが……。単に八穂が美人だったから結婚したらしい。少し長くなるが、それを示す箇所が『明治のお嬢さま』にあるので引用しよう。

「一九〇八(明治四十一)年二月十五日付『国民新聞』には、男爵岩崎弥之助の次男の俊弥の結婚話が、かなりの長文で紹介されている。

 見出しには『高価なる恋病ひ 当世写真の奇縁』とあり、リードには『岩崎男爵の二男俊弥氏と廬高朗氏の二女八百子〔六女・八穂の誤り〕の婚儀此の費用二十余万円 媒介者は加藤高明氏なり』とあった。さらに、紙面には、岩崎俊弥と廬八百子の顔写真も並べて掲げられている。(中略)

『国民新聞』の記事によれば、この俊弥が突然病気になって寝込んでしまった。ところが、それは恋の病で、相手は元大蔵省大書記官の廬高朗の令嬢八百子だったという。