二代目・泉屋理兵衛友以は京都から大坂に移り、以後、住友家は大坂を本拠地として、銅精錬と銅貿易商を行うようになった。三代目・泉屋吉左衛門友信の代に至って、各地(秋田、山形、岡山)で銅山を経営し、両替商をはじめた(友信以降、当主は吉左衛門を襲名した)。四代目・泉屋吉左衛門友芳は伊予(愛媛県)に別子銅山を発見し、1691年(元禄4年)に開坑に及んだ。別子銅山は国内最大規模の産銅額を誇り、住友家の発展に大きく寄与した。豊かな資金力を背景に江戸に店を構え、両替商を拡大した。こうして住友家は三井家・鴻池家と並んで江戸時代に「三大豪福」と呼ばれるようになった。
15代・住友吉左衛門友純:公家・徳大寺家の御曹司
1890年11月26日に12代・住友吉左衛門友親(1843~1890)が腸チフスで死去(享年48)。同年11月30日には友親の子で13代・住友吉左衛門友忠(1872~1890)が病死してしまう(享年19)。友親には1男2女しかなく、友忠は未婚だったので、急遽、友忠の母・登久を暫定的に14代当主に立てた。
ところが、登久が経営に介入し出すと、住友家の番頭(広瀬宰平・伊庭貞剛等)は登久を幽閉してしまう。そして、1892年に公家の徳大寺隆麿を登久の娘と結婚させ、翌1893年に15代目当主とした。住友吉左衛門友純(1865~1926)である。
なぜ徳大寺だったのか
徳大寺家は公家の中でも五摂家(摂政・関白に任じられる五つの家柄)に次ぐ高貴な家柄(清華大臣家)である。父・徳大寺公純(1821~1883)は江戸時代に右大臣を務め、兄・徳大寺実則(1840~1919)は1871年に侍従長、1884年に侯爵に列し、1891年に内大臣、1911年に長年の勲功によって公爵に陞爵した。次兄の侯爵・西園寺公望(のち公爵、総理大臣。1849~1940)は大臣候補の有力政治家だった。
15代・友純の養子縁組は、広瀬宰平・伊庭貞剛ら住友財閥首脳が、住友家の家格上昇を狙ってのものであることはほぼ疑いがない。ではなぜ、徳大寺家だったのか。そして、徳大寺家側にはいかなる事情があったのだろうか。
しかし、友純の伝記『住友春翠』ですら「徳大寺隆麿の住友家に入るに至つた事情、経緯には、既に不分明のことが多い」と記し、いかなる経緯があったのかは不明である。