ただし、誰が介在したのかは以下の証言がある。「隆麿の住友入家の談が何時誰から起つたかは審かでないが、(中略)宮内省属官日高秩父が早くこの問題に関与したのを察することが出来る。次いで、媒妁に立つたのは岩佐純であつた。(中略)〔侍医の〕岩佐が宮内卿であり侍従長であつた徳大寺実則の家に親昵したことはいふまでもない」(『住友春翠』)。時代的には順序が前後するが、岩佐純は三菱財閥の岩崎家と姻戚関係がある(岩佐純の嫡男・岩佐新の義兄・本野英吉郎の義弟が岩崎弥太郎の子・岩崎康弥)。岩佐自身も医療関係者として財閥家族との付き合いがあり、その実態についても知悉していた可能性がある。

君臨すれど統治せず

 家督を継いだ住友吉左衛門友純は、住友家の家業には全く興味を示さなかった。事業を全て専門経営者に委ね、社交パーティに顔を出すくらいしか関与しなかった。それは徹底した「番頭政治」を家風とする住友財閥首脳の望むところであり、友純はあえて経営に口を出すことを控えていたともいう。

 三井財閥の例に見るまでもなく、専門経営者が財閥家族の放縦に手を焼くことが少なくない。そのためもあって、却って住友財閥首脳は住友家に大いなる敬意を以て遇した。「住友本社の特色はいわゆる家長尊重の気風がすこぶる厚く、住友家の当主吉左衛門に対する総理事以下幹部ならびに社員の気持は封建的といっていい位の鄭重さ、庇護、親愛の情を含まされていた。これを三井、三菱のそれらと比較して東洋経済新報社の記者は社員の家族(財閥当主)に対する気持を『住友の場合は「敬愛」、三菱の場合は「畏服」、三井の場合は「扈従」』と呼んでいた」(『日本財閥とその解体』)。

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住友吉左衛門友純が大阪市へ寄贈した本邸と庭園跡地にある、慶沢園と大阪市立美術館(大阪市天王寺区) ©AFLO

 そして、終戦時にその伝統がいかんなく発揮された。総理事・古田俊之助以下、専門経営者たちが考えたのは「いかにしたら、後生の物笑いにならないように、住友家の安泰を守れるか。極力、住友に累が及ばぬようにするか」ということだったという。