堀井雄二と中村光一
さて、そんな社風から発想されたゲーム・ホビープログラムコンテスト(編集部注:賞金総額300万円で始まったゲームのコンテスト)は1982年から1984年の間に3回にわたって開催されました。
なんといっても特筆すべきはその初回です。後にドラクエ開発の中核を担う2人の天才を輩出したからです。
そのひとりは、ドラクエシリーズの総合ディレクター(映画などでいえば語義どおりの「監督」にあたるポジション)であり、シナリオライターとしても唯一無二の「堀井節」を発揮することになる堀井雄二さん。
堀井さんはこのコンテストに『ラブマッチテニス』というテニスゲームを応募して入選しましたが、実は同時に、「週刊少年ジャンプ」(「ジャンプ」)に出入りする若手ライターとして、このコンテストのレポート記事を任されていました。周囲の関係者にも内緒でこっそり自分の作品を応募し、いざ入選してから「実はこれ、僕の作品なんです」と明かして「ジャンプ」誌面上でも自分の受賞記事を自分で書くという今の感覚でいうとムチャクチャなやり方ですが、堀井さんらしい茶目っ気が伝わるエピソードです。
もうひとりは初期ドラクエシリーズのメインプログラマーであり、後にゲームメーカーの株式会社チュンソフトを創業する中村光一(*1)さん。
*1 現スパイクチュンソフト取締役会長。1980年代前半からプログラミング雑誌『I/O』などにアーケード(業務用)ゲームの移植を投稿しており、早くから天才プログラマーとして知られていた。
中村さんはこの時点でなんと高校3年生だったのですが、自作ゲーム『ドアドア』を応募し、優秀プログラミング賞を受賞しました。『ドアドア』はコンテスト後、すぐにエニックスから商品化されて1万6000本の大ヒットとなり(当時のPCゲームは数千本売れればヒット作でした)、中村青年には最初の1カ月だけでも400万円以上の印税が振り込まれました。
コンテストの優勝こそ、すでに有名プログラマーだった森田和郎さんのウォーシミュレーションゲーム『森田のバトルフィールド』に譲りましたが、その若さと作品のヒットをもって、まさにこのコンテストが生み出した次世代のスターと呼ぶにふさわしい存在が中村光一さんだったといえるでしょう。

