本を読むために、あえて「書評」という負荷を足す――量のゲームを質のゲームに変える戦略

 わたしは本を読むのが嫌いなのに、留学中に大量の研究書を読まねばならない状況に追い込まれた、ということは第1回でも書きました。そこではポモドーロ・テクニックを紹介しましたが、これはどちらかといえば、「大量に読む」という辛さを「軽減」する技術だと言えそうです。

 このキツさをどうにかするために、わたしはいくつかのテクニックで立ち向かったのですが、今回は「大量に読む」というキツさに、いかにデザインとコントロールでアプローチしたかという話をしたいと思います。

 これは困難でした。なんといっても、「100冊の研究書を読まねばならない」という大前提が絶対に消えません。これを「コントロール」と言ったって、いったいどうすりゃいいのか。

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 そこでわたしがとった戦略のひとつは、別種の負荷を導入する、というものでした。

 具体的には、読んだ本について書評を書くというタスクを追加したのです。この新たなタスクの導入によって、読むべき量が減るどころか、むしろ作業量が増えたわけですが、しかし、ここには「大量に読む」というタスクの辛さを捻じ曲げる仕掛けがありました。

 書評というのは相手がいます。つまり、その本を書いた著者です。著者は、かならず書評を読みます。だからわたしの書評は、確実に生身の著者に届いてしまう。これは、ただインプットとして読むのとは、緊張感がまったく違います。批判するならもちろん、褒めるときでさえも、相手に失礼のないように、ちゃんと読まないといけない。

 しかも〆切がある。〆切までに、間違いのないように読んで、引用箇所を決めて、しかも書評の本文そのものを完成させないといけない。これはじっさい、読書が好きでどんどんひとりで読みたいひとにとっては、それこそ苦痛でしかないでしょう。あるいは、はたから見れば、「あいつは読むだけでも大変なのに、さらに書評まで書いている」まさに「ストイック」な人間に映ることでしょう。

 ここで書評という戦略を立てた理由にはいくつかの背景があって、今後べつの話でも触れたいと思うのですが、今回の文脈で重要なのは、わたしは短い論文などを読むのは平気で、長い本を通読するのが嫌いである、ということが自己分析でわかっていたということです。読書というか、とにかく「通読」が苦手なんですね。わたしは、100冊の研究書を「すべて通読する」というタスクには向いていない。だからこれを別種のゲームにしたわけです。

 ここで起こっていることを抽象化すると、これは量のゲームを質のゲームに変換したのだと表現できるでしょう。ひとりでひたすら量をこなすというタスクの負荷を、わたしは他人を巻き込んだ緊張感のあるコミュニケーションという負荷へと変換した――まさしく、編集者や著者との「契約」によって。それは自分でデザインした、自分が乗りこなせるとわかっている苦痛でした。

 そしてその100冊の読書は、楽しかったのです。

「わかってやってるやつは強い」。勉強のために負荷をうまくデザインせよ

 勉強にキツさはつきものです。多くのひとは、それゆえ断念するか、あるいは我慢してしまう。もちろん、誰しもそういうことはあります。しかし、じつはそれは事前の準備が足りていないだけかもしれない。その準備には、「いかにラクをするか」という苦痛を緩和する方向性も、あるいは「頑張ったご褒美」などを用意して自分を鼓舞する方向性もある。

 しかし、うまく負荷を自分好みにデザインしなおし、苦痛を味方につけてしまうという逆説的な方法もありうる。それはまさしく、本連載の根底にある、あの「わかってやってるやつは強い」という認識の、ひとつの重要なバリエーションです。

 今回はそういうお話でした。

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