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税理士からの鋭い指摘に呆然!

「ということは、税務署は惠子さん1人の名前で請求しているわけです」このあたりから、いくら鈍なわたしでもいやーな予感がしてきました。つまり、娘には遺贈されてない……!?

「じゃ、じゃあ、母が、くも膜下出血で衰弱しきった体にも拘わらず、わたしに手を引かれ、いろんなところに行って、依頼して、もちろんその都度、手数料もお払いしたこれらの証書は何の役にも立たなかったわけですか?」

「結果的にはそういうことになります。それらに基いて手続きをしていなかったのでしょう」

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「まさか! そんなことあるはずがないでしょう」

 と言いながら、あるはずがあったかも知れない当時の状況をまざまざと思い出したのです。

国連の親善大使として海外を飛び回る日々

 母が亡くなった1999年、私は国連の親善大使として、アフリカはセネガルの奥地、水道も電気もガスもなく、勿論電話などという文明の利器は皆無の村にいたのです。しかも、コレラの予防注射が効きすぎて、高熱を出し、よれよれになってパリの飛行場から病院へ直行して、やっとのことで我が家へたどり着いた時、電話が鳴ったのです。前記の松原小幸さんが多少のなじりをこめて宣告しました。

「お母さまが、昨夜亡くなりました」

 13年も病んでいる母親をほうって何が親善大使よ、と言いたそうな非難が声に潜んでいました。

 わたしは返事も出来ず、財布と、クレジットカードだけをもって東京へ向かう飛行場へ駆けつけました。

年に何回もパリ・東京を往復する介護の生活

 母は遺言書を書き、公正証書を作ったすぐ後、急に具合が悪くなり、入退院の頻度が高くなって、わたしは年に何回もパリ・東京を往復する介護の生活を繰り返していました。母が再度のくも膜下出血で倒れたのは、わたしがパリの自宅経由で、セネガルへ発つ前日だったのは後から知りました。13年前の、初めての出血時の手術は5時間もかかりました。母は背骨が横に曲がり、壁を伝わないと家の中を歩くこともままならない不自由な日々にも拘わらず、最後まで認知症にもならず、肌着は気丈に自分で洗う日本婦人の鑑のような明治の女でした。けれど、「介護の13年間」は母にもわたしにも辛い日々でした。パリへ帰らなければならないわたしを見る母の心細さに蒼ざめた顔。それを見るのは、その都度身を切られるように辛かったのに、国連のアフリカへのミッションで横浜の玄関を発つわたしに母は初めて、淋しさをにじませない晴れ晴れとした顔で言ったのです。

「惠子ちゃん、行っていらっしゃい! あなた、とてもいいことをしているのよ。あたし、誇りに思っているのよ」

 朝日のような輝きのある母の笑顔が、わたしが見た最期の母であり、最期の言葉でした。