「おかしいわね、警察ともあろうものが詐欺犯人と分かっているのに、名前も聞き出せないんですか」
「これから調べてすぐにご連絡します。ハンドバッグのなかに本人の身分証は無いのに、岸さんのカードのほかに4、5枚の名前の違うカードが入っていましたから詐欺師なのは確実です」確実な詐欺師はそちらサマなんじゃない、とも思ったし、ほんとなんじゃないかとも迷いました。時刻は15時少し前。
「連絡は明日にしてください。出かける時間だし、その後会食で帰りは遅くなります」
「こちらも明日なら好都合です。詳しく調べて連絡します。場合によっては、お宅にお邪魔して岸さんのJALカードを見せて頂きます」
本当かも知れないと思う気持ちが9割に
よどみも曇りもない応答でした。詐欺と本当かも知れないが、わたしの中で2対8の比率でうごめきます。(わたしを騙すとしたら盤石の知能がいるんだぜ!)と心の中で毒づいたものの、本当かも知れないが1割方あがって、9割になりました。
時間通りに来てくれた「オール讀物」の大沼編集長が、「うーん、知人の母親も今年やられたんですよ。カードで6万円の洋服を買おうとしているという電話があったそうです。一般人が6万円で、岸さんが30万じゃ、落差としては少ないですね」と笑うのを聞いて、今度は本当かも知れないが突如1割になり、詐欺に違いないが9割になりました。
横浜高島屋の向こう隣にあるビルで紹介された司法書士は、信頼のできる素晴らしい人柄でした。使用されなかった遺言公正証書はいまでも通用するらしい。わたしは目先の詐欺か否かに心奪われ、自分の死後、娘が莫大な税金に戸惑う姿が消し飛んでしまっていたのです(後日、この浅慮は友人から指摘され、改めてなすべき調査をすることを自分に誓いました)。
2人で横浜高島屋の時計売り場へ乗り込むと
その日、司法書士事務所を出たわたしたち2人は、そのまま、屋内通路でつながっている横浜高島屋の時計売り場に向かいました。
わたしはちょっとした興奮で、ドキドキしました。9割の勘が勝つか1割のドジに負けるか……「どっちにしても、絶好のエッセイ・ネタですね」と大沼さんが茶化します。
広大なそのコーナーは若くきれいな店員さんがあちこちで接客をしていました。その1人に「森山さんとおっしゃる方にお会いしたい……」と、事情を話すと、終わりまで聞かずに、「少々お待ちください」と奥へ消えます。手慣れた感じに、あれっ! と思いました。
現れた責任者はうつくしい声の30代の美人。
「森山という人はおりません。わたしが責任者です。店員から聞きましたが、すべて嘘です。この時計売り場だけで今朝からもう4件もありました。でも岸様ご本人にわざわざお出ましいただいて、お眼にかかれてうれしいです」
「ええっ!? やっぱり嘘っ? 今朝から4件もあったんですか!」
拍子抜けも甚だしく、恥ずかしくもあり、面子上、一応疑問調で問い質してみました。
「ちなみにこちら、管轄の警察は戸部警察署?」
「戸部警察署です。当たっています。彼らは緻密に調べているのです。今やオレオレ詐欺の上をいっています。今はターゲットが迷惑なことに高島屋なんです。かなりしっかりした方でも引っかかるほどの嘘話を抜け目なく作っています」
美人女性はわたしの隣で、面白そうに聞いている大沼さんに視線を移しました。
「あ、こちら、文藝春秋『オール讀物』の大沼編集長です」
2人は間髪を入れず、といった具合に名刺交換をしました。
「高島屋さんもご迷惑ですね。でも、ことの次第は近々岸さんが、『オール讀物』にエッセイを書きますから、その号をお送りします」えーっ! そういうことになるのかよ、今、わたしほかのエッセイ集を書いてる最中なんだけどな……。
「明日、絶対に戸部警察署からは連絡など行きませんから」
ダメ押しの笑顔で送り出されたわたしたち2人は、また屋内通路を戻って、ベイシェラトンへ食事に行きました。無茶苦茶にお腹が空いたのです。