「可愛いベイビー」は中尾以外にも複数の歌手がそれぞれ違うレコード会社からリリースしていた(中尾は日本ビクターからリリース)。こうした競作は当時よくあり、そのなかからヒットしたひとりだけが生き残れるという熾烈なものだった。みんな同じ曲を歌うので、そのなかで中尾は《いかに個性をだすか、自分なりに真剣に考えたものですよ》という(『週刊文春』1987年6月4日号)。
デビュー曲にしてヒットし、この年暮れにはNHKの紅白歌合戦にも初出場を果たした。ヒットのおかげで多忙をきわめ、スケジュールは24時間みっちり入っており、寝る時間は、当時東京と各都市を結んでいた飛行機の深夜便などで移動しているときしかなかった。
トレードマークのポニーテールをバッサリ切って
もっとも、そのなかで中尾は自由奔放にやっていたともいう。当時の渡辺プロはほかの芸能事務所に先んじて大卒者を積極的に採用し、所属タレントのマネージャーにつけていた。だが、中尾は「大学を出たからって何の役にも立たない」「10代の小娘を納得させられないようなマネージャーだったらいりません」などと憎まれ口を叩くので、マネージャーがついては次々と外れ、ついには一人でやってくれと言われた。
デビュー当時のトレードマークだったポニーテールにもこんなエピソードが残る。中尾はクセ毛でポニーテールにしていると産毛がフワフワはみ出るので、事務所の上司からは当初「その頭、何とかならないのか」と言われていた。それが「可愛いベイビー」がヒットすると、手の平を返したように「それがおまえのトレードマークだからな。変えるなよ」と命じられ、カチンと来た彼女はその足で美容院に行き、髪をバッサリ切ってしまったという。
意地を張っていたとも思えるが、本人からすると《子供が大人の世界に入って、背伸びしなきゃ、バカにされないようにしなくちゃって意識がすごくあった》らしい(『サンデー毎日』1991年6月9日号)。あまりにも仕事がきついので「組合つくろう」と言って社長の渡辺晋から怒られたり、上司に「おまえの言っていることは正論だけど、正論だけじゃ世の中渡っていけねえんだぞ」と諭されたりもしたという(『週刊朝日』2012年9月7日号)。

