歌手・俳優の中尾ミエがきょう6月6日、80歳の誕生日を迎えた。15歳の頃に「可愛いベイビー」で歌手デビューするといきなりヒットし、紅白にも出場。俳優としても活躍するようになり、その後は……。(全3回の2回目)
中尾ミエは「可愛いベイビー」のあと、歌手としてなかなかヒット曲に恵まれないまま30代に入っていた。それが1977年、その6年前にリリースしたものの売れなくて廃盤になった「片想い」という曲がどういうわけか札幌の有線放送で人気に火がつき、レコード会社が急遽再発したところ30万枚を売るヒットとなった。
タレントとしても才能を開花
30代のこの時期には、タレントとしても思いがけず才能を開花させた。きっかけは1979年、バラエティ番組『笑アップ歌謡大作戦』(テレビ朝日系)の大喜利コーナーで、「渡辺プロがダメになる3つの原因は……」というお題に対しタレントの実名を挙げて答えたところ、大ウケしたことだった。
それからというもの、ほかの番組でもきわどい発言を繰り返し、毒舌タレントとしてにわかに人気を集める。そのうちに当時流行った都市伝説「口裂け女」をもじって「口先女」というあだ名がつき、茶化された側の渡辺プロがこれに乗じて「口先き(ママ)女・中尾ミエ」とプリントしたシールまでつくるほどだった。
「おとなしくなった自分がつまらなくなってきたのね」
本人によれば、若いころは思ったことをすぐ口にしてしまい、生意気だとさんざん言われてきたので、大人になるため少しは丸くなろうと思い、しばらくおとなしくしていたという。しかし、そのうちに《おとなしくなった自分がつまらなくなってきたのね。丸くなるってことは、トゲを切り取ってしまうことじゃなくて、隠しておくことだって思ったの。そして、ここぞってときにそのトゲを出すことも必要なんじゃないかって》思い直し(『週刊平凡』1979年9月27日号)、それが結果的に視聴者に受け入れられたのだった。
他方で、版画家の池田満寿夫との対談で、言われた相手がどういうふうに思うだろうかということは考えないのかと問われ、《いや、考えますよ。とりあえずいっちゃった後、どっかで救いがないと、傷つけるだけで終わりますからね》と答えているように(『週刊朝日』1980年1月18日号)、彼女のなかでは葛藤もあったようだ。
しかし、結果的にはこのときのイメージチェンジは中尾の仕事の幅を広げることへとつながった。1980年には東京12チャンネル(翌年にテレビ東京と改称)でフォークソング出身の歌手の森山良子と組んだ『ミエと良子のおしゃべり泥棒』の放送が始まり、毎回、男性ゲストを招いては杯を傾けながら歯に衣着せぬトークを繰り広げ、7年続く人気番組となった。森山とはこれをきっかけにジョイントコンサート「ミエと良子のショー泥棒」を何年にもわたって開催している。

